2012.06.19 Tuesday
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Gil-Martinの部屋Gil-Martinの愛する音楽、感じたことなどなど
***当ブログに掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します*** 2006.07.30 Sunday
わたしが愛したすべての男たちへ
ともかくもPJ Harvey Appreciation Week最終回です。PJ Harveyの歌と言えば、恋と欲望の歌であり、満たされない欲望を叫ぶことが多いとは思うのですが、今回の曲はわりと冷静に恋の終わりを見つめる歌です。B-Sidesから"The Falling”です。
それについて語る前に、やはり満たされない欲望を歌う彼女を。伝説的なBjorkとのデュエットで、The Rolling StonesのSatisfactionを歌う様子です。 1994 Brit Awards "Satisfaction" by PJ Harvey and Bjork 正直言って、PJ Harveyのアレンジですね。満たされない欲望という題材そのものが、BjorkよりはPJ Harvey向きです。だって、Bjorkは自己完結していて、自分に満足している感じがしますから。 でも、この歌、"The Falling"では、もはや満たされない欲望は問題ではありません。恋人が不誠実であったことを発見して、立ち去ろうと決心するのです。彼女は動揺しています。珍しいパターンですよね、男が不誠実だろうが、彼女を口汚くののしろうが、すがりついて、わたしの欲望を満たして! と叫ぶPJ Harveyの歌のヒロインたちと違って、この歌のヒロインは、動揺して歩き回り、あなたのことは愛していた、でももうさようなら、と勇気を出して伝えるのです。 恋人の裏切りにあったことがある人もない人も、自分の恋人と別れようかどうしようかと悩んだことは一度ならずあるのではないでしょうか。そのときの気分をうまく表現していると思います。そして、今まで愛した男たちすべて、彼らのことも本当に愛していたのだと言います。本当に心から向き合ったのだと。でも、彼女、それでもきちんと別れを告げるのですね。 すがりついてはいないけど、これもPJ Harveyらしい恋愛現役っぽい歌。別れてしまった男たち、愛したすべての男たち、そのリストにこの不誠実な男もただ加わるだけのこと。そう、どんな風に別れようと、どんな酷い目にあおうと、ひと時でも愛したのは間違いない。そこまで否定する必要は何もないのです。ただ、別れるべきときはしっかり見定めなくては。そういう意味では、かっこいい歌なのかもしれませんね。そして、きちんと別れた男たちにも、ちゃんと愛していたのよと言ってあげるいい女です。 別れを決心するときの痛み。このリアルさがPJ Harveyの魅力だと思います。絵空事のように、夢のように素晴らしくもなく、信じられないくらいドラマチックでもない恋愛です。そのなかに、潜んでいる、誰にでも想像がつかなくもない痛みを表現しているのです。でも、わたしの場合、別れた男はわたしにとっては死んだも同じ。PJ Harveyほどいい女じゃないので、別れた後に優しく愛していたとは言ってあげられません。言ってあげられるのは、わたしの心のなかの遺影にだけだわと思うのですが、この歌のなかではPJ Harveyも直接、伝えているわけではないので、似たようなものかもしれません。 原詞はこちらのファンサイトから(http://www.pollyharvey.co.uk/) Lyrics→Miscellaneous B-Sides→The Fallingへ 堕ちる 歌詞:PJ Harvey 訳:Gil-Martin どうやって歩いて、どこに逃げていくんだろう どうやって歩いて、どこに逃げていっているのかわからない あなたが他の人の腕のなかでキスしてるのを見る 安っぽいバーでキスしているのを見る どうやって歩いて、どこに逃げていってるんだろう どうやって歩いて、どこに逃げていくのかわからない あなたが呆然とキスする姿を見る 痛みだけを愛して わたしは呆然と歩く 呆然と歩く 子供の顔で歩く わたしたちが一緒にいたときを思い出しながら 呆然と歩く 呆然と歩く あきらめなくちゃ、変わらなくちゃ 今日がその日 わたしが愛したすべての男たちに わたしが愛したすべての男たちに 治まらない怒りを解き放つものをあげる わたしは腕を広げる 愛した男たちすべてに 愛した男たちすべてに 心のなかの恐怖を打ち明ける もう変わらなきゃならない、まだ間に合う 一緒に歩いたこと覚えてる? 一緒に見たもの覚えてる? わたしたちの顔が沈んだ子供たちの心に わたしが愛したすべての男たちに わたしが愛したすべての男たちに わたしはこの歌を捧げる 今日がその日だって 今日がその日だと宣言するこの歌を だからわたしたちは堕ちる そしてまた堕ちる でもわたしは今日、こう言いにきたの 愛してたって まだこういう時間はある わたしたちは沈んだ子供たちの心だと 憎しみと愛のなかで なくしたものと無のなかで すべての哀しみのなかで わたしはこう言う わたしは傷つきやすい心を開いたの 傷つきやすい心を開いたの わたしが愛したすべての男たちに わたしが愛したすべての男たちに でも覚えていることがある 一緒に歩いたこと わたしの心が凍りついたときのことよ あの想いを抱えたままで あきらめるときが来たの、変わらなきゃならないときが来たの あきらめるときが来たの、変わらなきゃならないときが来たの 何度も何度も振り返って言うの 今日がそのとき 今日がそのとき だからわたしたちは堕ちていく また堕ちていく でも今日、わたしはこう言いにやってきたの 愛していたわ まだこういう時間はある わたしたちは沈んだ心を持つ子供たち 堕ちていく 堕ちていく *アーティスト:PJハーヴェイ 作品:Bサイズ 「ザ・フォーリング」 2006.07.26 Wednesday
生の魅力
PJ Harvey Appreciation Weekの第二回目です。なんだか読み返してみたら、昔書いたPJ Harvey関連記事とそれほど違うことを書いていなかった……うーん、どうも表現力に乏しいな、わたし。
とは言え、始めてしまったので、第二回目を。PJ Harveyの場合、普通のフルアルバムを出す、そしてその次にデモ版、またはB面を集めたものをリリースするというパターンがよくあります。二枚目のアルバム、Rid of Meの次に販売された4 Track Demos、三枚目のアルバムのTo Bring You My Loveの次にB-Sidesと二枚組になったもの、そして一番最近のUh Huh Huhの後にミニアルバムのB-Sidesが出ています。最初のDryにもそのままDemonstrationと言うタイトルのデモ版があったのですが、これはもはや伝説の領域。CDとしては、1000枚しか作られてないんですって。ほしー。 彼女のデモ版の重要性は、Rid of Meのときに大変注目されました。名の知れたSteve AlbiniがプロデューサーとしてRid of Meに参加して、それが話題を集め、評価も高かったわけですが、ノイズを強調する彼のやり方は、本当によかったのかしら、という疑問も投げかけられていました。そこで発表された4 Track Demosは、ギター一本で歌う、もっと生な彼女の声が聴けるものでした。確かに初期のPJ Harveyの魅力は、生々しさ、彼女の体温や息遣いが感じられるような直接性だったと思うので、デモはその魅力を最大限に表現しているものと言えます。 4-Track Demos ということで、このRid of Meの後に発表された4 Track Demosからの曲を。彼女の曲のなかでも、わたしにとってはかなり上位に入る"Hardly Wait"です。この曲、実は映画Strange Days(『ストレンジ・デイズ』)のなかでJuliette Lewis(ジュリエット・ルイス)がカバーしてましたね。Ralph Fiennes(レイフ・ファインズ)が自分を捨てたJuliette Leiwsを思い続けるという、ある意味、愛に生きる(がこの場合は情けない)男を演じる映画でした(なんだかわたし、いつもレイフ・ファインズのことを考えているような気がしてきました。実はファンなのか?)。この映画には、この他には後にHollywood Madam(と呼ばれた、Charlie Sheenが大変お世話になった高級売春婦元締めの女性Heidi Fleiss)をぶちのめし、またドラッグテストをごまかそうとして偽XXXを使ったりして、やっぱり本当に怖い人だったことを証明したTom Sizemore(トム・サイズモア)、クドい演技をLaw & Order: Criminal Intentで披露し続けているVincent D'Onofrio(ヴィンセント・ドノフリオ)などが出てます。つまらない映画なりに見所は結構あったりします。 ストレンジ・デイズ ってな感じで、詞を訳してみましたが、改めて見ると18禁です。すみません。とは言え、ある程度大人の人しか知らないようなアーティストしか取り上げていないと思われるので、清く正しい18歳以下の青少年はこのサイトをご覧になっていないことでしょう。この歌を歌うPJ Harveyをわたしはすごくかわいい、と思うのですが、とっても大胆かつセクシーです。こうやって見てみると、Fleaに熱を上げられていても当然ですね。 でもここには欲望がただの性的欲望を超えて、死のイメージが被せられ、ガラスの棺のなかでロミオを待ち続けるジュリエットへと昇華されていきます。でもこのロミオはあまりに魅力的なあまり、破水させてしまうらしい……。昔、眼で妊娠させる男とかいうキャッチフレーズありましたね。でもこの彼は、その次の段階まで、破水までさせてしまうのか! あまりうれしくないかも。 原詞はやはりオフィシャルサイト、http://www.pjharvey.net/から。 Lyrics→Album 6. 4 Track Demos→Tracks Hardly Waitへ。 もう待てない 歌詞:PJ Harvey 訳:Gil-Martin 待てないわ すごく久しぶりだから もう感じを忘れちゃった ほら、天使がやってくる ほら、わたしの顔を舐めて 服を落として わたしは役を演じてあげる 口を大きく開けて あなたのを ああ 待てない 唇が乾いて割れてしまってる 舌は青くなって破裂しそう ほら、天使がやってくる ほら、わたしの渇望を舐めて もう感じを忘れてしまったの 彼、わたしのロミオ わたしを破水させてしまうの ああ ガラスの棺のなかでわたしは待ってる *アーティスト:PJ Harvey 作品:フォー・トラック・デモズ 「ハードリー・ウェイト」 2006.07.24 Monday
露出狂の女
ブログを始めて気づいたことは、どうやらかなりコアなTori Amosファンの方が日本にも結構いらっしゃるらしいということ。とってもうれしいことです。日本にまともなコンサートに来たことがないはずなのに、すごいと思います。それに較べ、どうやらフジロックフェスティバルなんかにもやってきているらしいPJ Harveyは、だからなのかもしれないけど、コアなファンというよりは、PJ Harveyってかっこいいなー、くらいのファンや男性ファンが結構いるみたいです。全世界的にもTori Amosのファンは、崇拝しているかのような女性ファンとオタクな男性ファン、PJ Harveyには普通にロックが好きな男性、女性ファンがいるみたいです。
この人たちもPJ Harveyが好きみたいです。 Anthony and Flea from RHCP, “If PJ Harvey was here” これを見る限りAnthonyがどのくらいPJ Harveyが好きか今ひとつ不明だけど(グレコローマンレスリングを一緒にしたい、って言われても……???)、FleaはまともにPollyが好きみたい(お熱上げたことなんか無いフリをして、彼女にxxxさせてもらいたいって!)。Red Hot Chili Peppersの二人がこれだけ(?)PJ Harvey を好きなら、男たちがPJ Harveyを好きでもおかしくないってわけでしょうか。 ということで、コアなPJ Harveyのファンであるわたしは、ライブDVDも出たことですし(わたしはまだ買ってませんが)、男にもてる「かっこいい」だけじゃないPJ Harveyを今週出来る限り(って恐らくあと1回か2回だとは思いますが)、語ってみたいと思います。ちょっとしたPJ Harvey Appreciation Week! Please Leave Quietly 以前、Henry Leeについての記事で少々、PJ Harveyの魅力について書きましたが(一時期ビデオのリンクが切れていましたが、戻りました)、わたしにとってはPJ Harveyの魅力は彼女の女であるところ。完璧な女でもなく最高にかっこよくてキマッてる女でもなく、体の芯から女である女。つまり性的な女。彼女の恋愛の歌は、愛の盛り上がりが性の歓びと同調しているときの歌のように思えます。関係が深く長くなると、日常の思いやりやら、一緒にいることの充足感やら、そういったところで愛を測ったりするようになるけれど、彼女の歌はもう愛がただただ性だけで測られる、不安定な、でも情熱的な段階の愛をいつも表現しているような気がするのです。 そのことを特に感じさせてくれたのは、特に最初の二枚のアルバム(だんだん、洗練されてそこまでストレートな表現をしなくなったから)。デビューアルバム最初の曲は、"Oh My Lover"――「わたしを捨てないで、彼女と一緒にわたしのことも愛してくれればいいじゃない」と歌います。かっこよくも何ともない惨めな女です。でもそれも否定しないで、彼女は体から声を絞りだします。それは、二枚目のRid of Me の"Rid of Me"も同じ。「あなただけはわたしを捨てたりしないで」とすがりつくのです。でも、惨めなだけにならないのは、怒れる女でもあるかも。 Dry 女としてかっこいいだけじゃなくて、かわいらしくて痛々しいのがPJ Harvey。最初のアルバムの"Sheela-Na-Gig"はそういう魅力全開です。Sheela na Gigとは、イギリスやアイルランドの教会などに見られる女性器を強調した女性の石像のこと(詳しくはこちらへ)。キリスト教に飲み込まれたイギリスで、ケルトの異端宗教の名残だとか、土俗信仰の豊穣の女神だとかいろいろ言われているけど、完全な統一見解はまだないようです。この歌では、男がお前はシーラ・ナ・ギグだ、露出狂だ、とののしるわけですが、キリスト教的な倫理に縛られない女にはそんな罵倒はまったくこたえません。そう、そこも魅力。何を言われても、わたしは女。わたしの論理で生きるの。 ビデオはこちら。 歌詞はこちら。まず公式サイトhttp://www.pjharvey.net/へ。そしてLyrics→Album 8. Dry→Tracks Sheela-Na-Gigへ シーラ・ナ・ギグ 歌詞:PJ Harvey 訳:Gil-Martin ずっと見せてあげようと思ってたの ほら、わたしの妊娠するのにぴったりの腰を見て ほら、わたしのルビーみたいに真っ赤な唇を見て ほら、わたしのたくましい腕を見て わたしの魅力たっぷりの体を見てくれなきゃ あなたの足元にじっと横たわっているんだから あなたは振り返って、わたしにこう言った シーラ・ナ・ギグ、お前は露出狂だ 髪の毛から男のそれを洗い落としたほうがいいぜ 「まるで初めてみたい、気にしないんじゃなかったの」 「前にも聞いた。もうやめだ」 「少ししたら、また会うわよ」 「前にも聞いたな」 彼は言った。シーラ・ナ・ギグ、お前は露出狂だ 空っぽの穴に金をつっこんどけ 彼は言った。胸を洗っとけ、不潔なのはいやだ 彼は言った。この汚い枕をどけてくれ *アーティスト:PJハーヴィー 作品:ドライ 「シーラ・ナ・ギグ」 2006.07.22 Saturday
想像力の海に呑み込まれる
今日はとてもお奨めの映画について書きたいと思います。この前の『ナイロビの蜂』に較べて、予備知識はまったくなしで行ったので、思いもかけない内容だったことに驚いた部分も含め、驚きと喜びと哀しみに満ちた映画でした。Terry Gilliam(テリー・ギリアム)監督のTideland (『ローズ・イン・タイドランド』)。
このポスターを見ると、主人公の女の子がとてもかわいらしくて、ファンタジーというジャンル分けからTerry Gilliamがかわいいファンタジーを撮ったのかな、という漠然としたイメージを持っていたのですが、「グロい」という評価もされていたので、うーむ、あのかわいらしい女の子がどう「グロい」ファンタジーのなかに出てくるのか想像がつかないぞと思いながら映画館に行きました。……「グロい」ファンタジーといえば、Jean-Pierre Jeunet(ジャン-ピエール・ジュネ)という連想をしてしまいますが、彼の場合は薄暗い、灰色のイメージですよね。とはいえ、Amelie(『アメリ』)はグロさを激減させて大ヒットしましたが。 Terry Gilliamは非常に熱心な支持者のいる監督ですが、どうもわたしにはピンとくる監督ではありませんでした。だいたいMonty Pythonシリーズを見ていると疲れてしまうのです、わたし(Monty Pythonがあまり好きじゃないって、ちょっと言いづらいことの一つかも)。Monty Pythonメンバーの唯一のアメリカ人として、多くの映画を作ってきた彼ですが、彼はとっても面白いはずだけど、わたしにとっては何となく疲れる監督。わたしの認識はこれくらいなので恐らくファンの方には納得できないことを言いそう。とは言え、今回は正直、大絶賛、です。 先ほども言ったように、まったく予備知識なしで映画館に行って見はじめたのですが、冒頭、少女がAlice in Wonderland(『不思議の国のアリス』)を語り始めたことには驚かなかったものの(いかにも、ですし)、彼女が南部訛りだったのには驚愕しました。……そんなところで驚愕しても仕方ないのですが。この女の子自身が南部出身となのかとも思いましたが、カナダ出身ですね(imdbを見ると、Stargate SG-Iなんかにもゲスト出演してます。わたしにはどうしても面白さがわからない、額になんか印のある人の出てくるSF)。 彼女にはショービズ・ヒッピー崩れの両親がいます。LAでの生活は、最悪ですが笑えるシーンが満載です。そして、最初気づかなかったのが父親役がJeff Bridgesだということ。ロッカー崩れの年老いた父親を好演です。Jeff Bridges、いい役者ですね。アメリカ人のダメなオッサンをやらせたら、もうこの人に適う人はないかも。何となくBaldwin兄弟とBridges兄弟・一家のイメージが被ってしまって、Alec Baldwinと較べると印象の薄いBridges家の代表的俳優という薄ぼんやりしたイメージだったのですが。でも The Door in the Floor(『ドア・イン・ザ・フロア』)では、奥様・お嬢様キラーのオッサン役で、愛しようがないキャラクターなのですが、彼がなぜか、なぜか許せるキャラクターに演じていました。今回もそう。ダメさ加減がまったく別のベクトルなのですが、この年老いたパパも人間としては最低最悪なのに、否定しきれないキャラクターでした。 それはもちろん、愛らしいJeliza-Roseの彼への愛情所以でもあります。彼女はダメ人間の両親をせっせと世話し、孤独や哀しみに陥ることなく、自分の友達である頭だけになったバービー人形たちを道連れに、未知と不思議に満ちた世界を探検し続けます。……以前にも書いたとおり、わたしは人形が小さい頃から怖かったのですが、この映画では怖いのが当たり前のような扱いだったので、素直に受け入れられました。物語の大半が展開するのが、Jeff Bridges演じる父親Noahの母親が住んでいた、南部の草原です。崩れかけた家、草原に捨てて置かれた客車、不気味な魔女のような女性、知能に問題のある男という南部のステレオタイプ、退廃のイメージをなぞっていきます。だから、南部訛りだったのね! と一応、納得するのですが、でも考えてみれば、父親には強い訛りがないし、Jeliza-Roseが生まれ育ったのはLAのはずなのに、なぜに? ……という疑問は放っておきましょう。 映画のサイト 英語・日本語 最初はJeliza-Roseの一人遊びはかわいらしく楽しく罪のないものなので、見ているほうも微笑ましく見守っていられます。とは言え、冒頭近くのシーンで彼女が父親のためにヘロインを溶かしているのを見たときには、かなりショックでしたが、そのショックを乗り越えると何があろうがある程度は笑って受け入れられました。しかし、Jeliza-Roseが天涯孤独の身になり、死んだ父親の上に丸くなって眠るのを見たりするうちに、不思議の国に住むJeliza-Roseの世界が真に危機に瀕していることに気づきます。もしかしたら、代わりの母親になってくれるのかも、と思わせた奇想天外な魔女のような女性Dellも……やはり奇想天外な人間だということがわかると、だんだん追い詰められていることがわかってきます。何よりも彼女の置かれた立場の危うさが明確になっていくのは、癲癇の治療のための手術で知能に明らかに障害を来たしたDickens(Dellの弟)と、Jeliza-Roseとの危うい友情・愛情の交換の部分です。Jeliza-Roseは無邪気に素敵なボーイフレンド、自分を愛してくれる誰かを追い求めているだけです。Dickensにも悪意はまったくなく、唯一自分を慕ってくれるかわいらしい女の子と楽しく遊びたいだけです。でも、ここに大きな落とし穴が待ち受けているのは、火を見るより明らかです。 そしてクライマックスは突然、やってきます。今まで不思議で奇妙な映像のなかに埋もれていた彼女の本当の悲劇をすべて視覚的・雰囲気的に象徴している列車事故。Jeliza-Roseはその決定的な悲劇のなかで自分を庇護してくれる人を求め、自分の空腹を満たしてくれる人を求めて彷徨います。そしてそこに一人、普通の中年女性がやっと、やっと初めて大人として、ほんの小さな子供であるJeliza-Roseを保護してあげようと手を差し伸べるのです。この場面では特に感動をそそって泣かせるキューとなるせりふも大きな出来事もないのですが、なんだかここでわたしはぼろぼろ泣いてしまいました。あんな満員の劇場でなければ、もっと大泣きしてしまいそうでした。 月並みなことは言いたくないのですが、いくら奇妙で愛すべき人に囲まれており、なおかつ彼女の想像力に助けられて、毎日の生活が不思議の国を旅するようなものであったとはいえ、実際、Jeliza-Roseの生活はあの年齢の女の子には、虐待の連続であったと言うべきです。誰も彼女を子供として慈しみ、育て、保護してはやらなかったのです。列車事故で自分も恐らく大切なものをなくした中年女性だけが、Jeliza-Roseをその年齢の女の子として、素直なごく普通の大人の視線で、初めて彼女を見たのです。ということに気づいたとき、本当につらくなってしまいました。 ……という楽しい魔術的な見せかけの下に隠されたつらい思いを経験してしまう映画なのですが、もう一度見たいと思わせる映画でした。今年、そこまで思った映画はないので、今までのところわたしにとっては第一位でしょうね。少々ネタばれしてしまいましたが、まだご覧になっていない方にはぜひ見ていただきたい映画です。上映が終わっていればDVDででも。もしかしたら、わたしももう一度映画館に足を運ぶかもしれません。でも、東京では二つの劇場でしかやってないのですよね。もう少し多くの劇場で上映してくれるといいなと思います。 最後に一つ、題名について。タイトルは原題がTidelandです。映画も原作の小説のタイトルもTidelandです。日本の映画タイトルが『ローズ・イン・タイドランド』。それほど大きな改変ではないのですが、ちょっと不満です。Jeliza-Roseというのが主人公の名前なのですから。ハイフンのついた名前だったら、最初の名前だけで呼ぶこともあるとは思いますが(ということはJeliza)、この子の場合、Jeliza-Roseと自分でも自分のことを呼び続けているし、南部訛りでaiの発音を「アー」という感じで伸ばした「ジェラー(ィ)ザ・ローズ」というのが彼女の名前だと思うのです。だから、ローズっていうと、彼女じゃないじゃん、とちょっと不満なのでした。 2006.07.18 Tuesday
素晴らしい人生
この季節にはあまり合わない気がするのですが、久々に思い出した曲について書いてみます。秋に聴きたい曲かもしれません。とても美しい曲です。Blackの"Wonderful Life"です。
Wonderful Life "Wonderful Life"というタイトルで、心の底からうれしくて楽しくてしょうがない、という歌ではないな、ということがまず感じられると思います。アメリカでは必ずクリスマスに放映される往年の名画、It’s a Wonderful Life(『素晴らしき哉、人生!』)という映画では、主人公George Baileyは自分の人生は失敗だったと思い、自殺しようと考えています。もちろん、ハッピーエンディングで、本当は素晴らしい人生だね、ということになるのですが、考え直してみないと素晴らしい人生だとは思えないときにしか、素晴らしい人生とは言わないのではないでしょうか。 この歌も哀愁が漂う曲です。やっぱり死というものが背景に漂っているような気がします。「逃げたり隠れたりする必要はない。」この言葉は諦観を示してますね。そして、「笑ったり泣いたりもしない。」感情が高揚したり、落ち込んだりすることももはやないのです。一人ぼっちの彼は、一人ぼっちでなくなるようにお友達が欲しいのです。そんな素直に言われると……ああ、ただかわいそうかも。 アーティストであるBlackという人ですが、イギリスの白人です。本名はColin Vearncombeというのですが、Blackというアーティスト名なので単純すぎて、ふと思いついて検索をかけようとしても、なかなか見つかりませんでした。本名を忘れていたので。だから、かなり長い間、もう消えてしまったのかなと思っていたのですが、どうやらインディで(本名で)ちゃんと創作活動は続けているみたいです。そして、Myspaceで彼の写真を発見したのですが……歳、取りましたね。"Wonderful Life"のビデオの頃には、金髪碧眼のきりっ、ぱちっ、と決まった感じで、絶対話しかけたくない感じの人でした(怖そうなのは鼻が高いせいか?)。それが、あらー、という感じです。一分の隙もなかった彼が、髪の毛はボサボサで白髪混じりで、無精ひげまで生えてる。ある意味、アーティストっぽくなったかも。Myspaceの写真は少々、Stellan Skargaardに似てるような気さえします。 このMyspaceのお友達になっている人のほとんどが"Wonderful Life"がずっと好きだった、またあなたを見つけられてうれしかったというようなコメントを残しているのが、すごく納得です。やっぱり多くの人にとって、すごく昔に聴いてとても美しくて感動したけれど、忘れてしまっていたアーティスト、曲だったんだろうと思います。 ビデオもとても美しいビデオでした。白黒の映像で、白い雲がいっぱい広がる空を背景に、特に一つの一貫したストーリーを作ることもなくにさまざまな風景が映し出されていきます。さまざまな人々が映るなかで印象に残るのは、楽しそうな遊園地の風景やトランポリンで空を舞う少年たち。楽しそうなのに、哀しい風景です。やがて去ってしまうことがわかっているひとときの非日常が切り取られていきます。ともかく白黒の映像のなかで自分はもうあんな風に無垢に楽しいと思うことがない、とわかっているという悟りのようなものが感じられます。まるで自分が死ぬ前に見ている光景のような……。でも、例え考え直す必要があっても、そのときに素晴らしい人生だったんだ、と言えれば、それでいいかもしれません。 ビデオはこちらから。 Myspaceはこちら。"Wonderful Life"も聴けます。歌詞もこのサイトで。 彼のウェブサイトはこちら。 素晴らしい人生 歌詞:Colin Vearncombe 訳:Gil-Martin 僕はまた海に行く 太陽の光が僕の髪を満たす 夢が空中に浮かんでいる 空のかもめが僕の眼に映る フェアじゃない気がする ここには魔法がいっぱいだ ほら、僕を見てくれ また一人ぼっちで立っている僕を 太陽の光のなかまっすぐに立っている僕を 逃げる必要も隠れる必要もない 素晴らしい人生だ 笑ったり泣いたりする必要もない 素晴らしい人生だ 君の眼を太陽が照らす 髪が熱を持つ 彼らは君のことが嫌いみたいだ だって、君がそこにいるからね 僕は友達が欲しい、友達が 僕が幸せになれるように 一人ぼっちで立ち尽くしたりしなくていいように 僕を見てくれ、再び一人ぼっちで立っている僕を 太陽の光のなかまっすぐに立っている僕を 逃げたり隠れたりする必要はない 素晴らしい人生だ 笑ったり泣いたりする必要もない 素晴らしい人生だ 僕には友達が必要だ、友達が欲しい 僕を幸せにしてくれて、一人ぼっちにしない友達が 僕を見てくれ、また一人ぼっちになった僕を 太陽のなかにまっすぐ立ち尽くす僕を 逃げたり隠れたりする必要はない 素晴らしい人生だ 笑ったり泣いたりする必要もない 素晴らしい人生だ *アーティスト:ブラック 作品:ワンダフル・ライフ 「ワンダフル・ライフ」 2006.07.16 Sunday
指先で触れる感覚
やっとThom YorkeのThe Eraserが手元に届きました。予約までしていたのに、なかなか届かなかった……ぐすん。日本版を買えば早かったのでしょうが、日本版だと誰だか知らない人が自己陶酔の極みのもっともらしいことを言うライナーノーツが付いてくるし(……このサイトで同じようなことをわたしもしております、ごめんなさい)、おまけに高い、かつコピープロテクションが付いていたりするので、基本的には輸入版を買うことにしています。でも、かなりの曲が発売以前からネット上で漏れてましたので、何となくアルバム自体はもう聴いていたのですが。
The Eraser 個人的に気に入ったのは、どこかの人(おそらくスペイン人)がつくった”Analyse”のビデオ(YouTubeで見られます)。Requiem for a Dreamを編集して、"Analyse"のビデオにしています。普通、そういう個人製作ビデオって、あまり完成度が高くなかったり、自己満足度が高かったりするのですが、このビデオの場合、曲の完成度ともちろん元の映画の完成度の高さが相俟って、なかなか素晴らしい出来になっています。Requiem for a Dreamは、これまた日本でどのような評価がされていたのかよく知らないのですが、インディ映画であり、ハードコアな映像実験映画、みたいな評され方をアメリカではされていました。実際に見たときには、少々違うかなという気はしました。おそらく今まで見たなかでもっとも怖い映画、というのが正直な感想です。夢の鎮魂歌は、これ上ない悪夢なのです。R指定ですが、すべての高校生くらいのティーンエイジャーに見せるべき教育的映画なのではないでしょうか? ともかく、悪夢という映像表現が、Thom Yorkeのファルセットで表現される抽象世界とぴったり合っているのです。 レクイエム・フォー・ドリーム デラックス版 Radioheadとビデオといえば、実験的なアルバムをつくるようになってから、彼らはシングルをあまり出さなくなったので、自然とビデオを作る頻度も低くなっています。とはいえ、よいビデオもあります。曲としてはうーむ、な初期の"Just"のビデオはとても「気になる」作品ですし、"Pyramid Song"のビデオも美しく、"There There"もかわいくて好きでした。でも、一番好きなのは、"Rabbit in Your Headlights"。これは厳密に言えば、Radioheadの曲ではなくU.N.K.L.E.とThom Yorkeのコラボレーションです。何度も見てもすごい。釘付けです。曲もすごくいいんだけど、ビデオ自体がもはやビデオクリップというよりは、ショートフィルム(やはりYouTubeで見られます)。"This is what you get when you mess with us"と、不吉なThom Yorkeの車が逃げても逃げても追ってくる"Karma Police"のビデオと較べてみると面白いかも。 ともかく今回のThom Yorkeのアルバムは、Radioheadとどこが違うの? と言われれば、基本的には違わない……けれど、バンドであるRadioheadと違ってほぼ純粋なエレクトロニカということでしょうか。Thom Yorkeのボーカルの全体の音楽における割合も高いかな。曲としては、よりわかりやすい、ポップであるような気もします。おまけに言葉をスラーする(はっきり発音しない、ということを言いたいのですが)傾向のあるThom Yorkeは何を言っているかわからないことが多いのですが、今回、はっきり"This is fxxked up"と繰り返すコーラスがあって、ちょっとThom様、お怒り? と思ってしまいました。この怒りに代表されるように、初期の頃に素直に表現されていたThom Yorkeの傷つきやすい繊細な感覚が、再び(洗練された形で)表現されているのかもしれません。指で触れるだけで傷つけてしまう、そんな感覚が。 原詞はこちらから 分析 歌詞:Thom Yorke 訳:Gil-Martin 限りない可能性という予言は自分で満たす 君は道を一連の紙のように横切る 代数に基づいて 昇ることのできないフェンス、韻を踏まない文 決して君は変えることができない 君が求めているものを それが君を落胆させる 君は失望する きらめきはない、闇のなかに明かりはない 君は落ち込む 君はがっかりする 長い間旅してきた君が知ったことは 時間が無いということだ 時間が無い、分析する時間が無いんだ 物事をしっかり考えて意味を理解する時間が 都市にいる牛のように決して美しくは見えない カートや停電のなかで赤ん坊のように眠っているけれど 君はがっかりする 君は落胆する 君はただ役割を演じているだけなんだ ただ役割を演じているだけ 君はただ役割を演じている 役割を演じている そして時間が無い 時間が無い、分析する時間が 分析する時間が、理解する時間が *アーティスト:トム・ヨーク 作品:ジ・イレイザー 「アナライズ」 2006.07.10 Monday
静かな夏の夜に
まだ雨も降りますが、梅雨というよりは夏らしくなってきたような気がする今日この頃。夏といえば、この曲かもしれないとここ2、3日考えていました。REMの名曲、"Nightswimming"です。
REMといえば、言わずと知れたアメリカのカレッジロックバンド。息の長さとその政治的意識の高さからすると、U2と並ぶロックバンドと言っていいでしょうか。内向的な自己満足的反体制バンドから、もう少し外へと向かい始めたDocument辺りが彼らの最高点であったとわたしは思うのですが(異論はたくさんあると思います)、1992年のアルバム、Automatic for the Peopleからのこの曲は、REM自体のいわゆるカレッジバンド、オルタナティブ(音楽的にも政治的にも)という姿勢とは違ったものを見せるものでもありながら、美しく切なく、忘れられないイメージを想起させる曲です。 Nightswimming ある意味、(元々の意味合いとは違っても)カレッジバンドというタイトルに違わない曲かもしれません。この曲は、ティーンエイジャーであったころの夏の想い出を回顧する歌です。大学に行く前の、それとも大学生低学年の夏休みの夜、彼らは湖に泳ぎに出かけます。森に囲まれた湖で水着など持っていない彼らは、裸で泳ぎます。もうすぐ9月。大学が始まります。ここで、この友人たちと一緒に時間を過ごすのは最後。そして、来年になればまた会えるかもしれないけれど、来年になればまた少し違った人になっていく友人たち。彼らには未来という希望と不安が待っています。その前に、彼らは残された時間を、自由を楽しむために、裸で水のなかに飛び込むのです(ちなみに裸で泳ぐことをskinny dippingと言います)。 こんな経験はもちろん、わたしにはありません。アメリカの田舎で育ってもいないし、湖にみんなで泳ぎに行ったこともありません。でも、なぜかノスタルジアに駆られます。本当は失われていないけれど、失われてしまったように感じるものを、切なく、懐かしく想い出している気になります。湖に一緒に行った仲間のなかには、もちろん自分が想いを寄せている女の子もいます。そう、この存在しない記憶のなかでは、わたしは少々不器用な男の子です。頭は悪くないし、もてないと言うわけでもないけど、それほど器用な少年ではない彼は、切ない想いと満たされない欲望を抱えながら、少し冷たくなった湖の水のなかを何も身につけずに泳ぐのです。そして、何年も経って、ずっとずっと器用になったけれども、何度も絶望と傷心を経験した彼は、あの水のなかで見た光景をいつまでも想いだすのです。あのときの自分を愛しく想いながら。 YouTubeで長いフルバージョンのビデオが見れます。大作です。ぜひご覧ください! こちら Austin City LimitsでMichael StipeがColdplayと共演したときのものはこちら (……最高の曲だと言いながらも、やっぱりChris Martinはわかってないよなー、とちょっと思う) ナイトスイミング 歌詞:Michael Stipe 訳:Gil-Martin 夜に泳ぐには静かな夜がぴったりだ ダッシュボードに何年も前にとった写真が フロントガラスから見えるように反対向きに置いてある 街灯が写真を反対に映しだす でも、それでもはっきり見える 僕はシャツを湖畔に置いてきてしまったんだ 今晩、月は低い 夜に泳ぐときには静かな晩じゃなくちゃならないんだ みんなわかっているんだろうか もう何年も昔のようにはいかない 誰かに見つかるかもしれないという恐怖 無謀な自分たちと水の恐怖 僕の裸を人に見られることはないんだ こういうもの、こういう気持ちは忘れ去られてしまう 毎日という日常のなかに埋もれて 泳いだ夜、あの夜を想いだす 9月が迫っていた 僕は月に恋焦がれる もし月が二つあって軌道を並んで 美しい太陽の周りを廻っていればどうなる? 明るい調子のいいドラムでは あの夜のことは表現できないんだ 君のことを知っていると思っていた 君のことを今の僕はいいとも悪いとも言えない 君は僕のことを知っていると思っていた ささやくように静かに笑っている君のことを ナイトスイミング 写真が反射する 街灯がみなあのときのことを思い出させる 夜に泳ぐときには静かな夜がぴったりだ 静かな夏の夜が *アーティスト:REM 作品:オートマティック・フォー・ザ・ピープル 「ナイトスイミング」 2006.07.07 Friday
浮世の別れ、彼の世の別れ
今日は七夕ですね。でも、七夕ってとてもロマンチックな日なのに、小さいころに自分の願いを竹につるした以外(ということは決してロマンチックなお願いはしなかったはず)、何でもない日となってしまって久しいです。それはなんだか哀しい……。ということで、それを埋め合わせるために、ちょっとはロマンチックな、というか、ああ、行かないで、まだ別れたくないのー、と歌う歌ってなかったかな、と思って考えてみました。
ありました。懐メロの領域に入りますが、大ヒット曲のShakespeare's Sisterの"Stay"です。これは永遠の名曲の一つに入ると思うのですが、なぜだか(それほど思い出す人がいないのか)自分でCDをかけない限り、滅多に聴くことがありません。 Hormonally Yours 昔、BananaramaにいたSiobhan FaheyとEric ClaptonのバックボーカルだったMarcella Detroitが組んだ二人組みがShakespeare's Sisterです。歌唱力は問題なしの二人。少々The Eurythmicsを髣髴とさせるかな。わたしのかすかな記憶では一発屋という感じですが、一応アルバムは三枚出しているみたいです。そして、その当時ビデオを見たことがあったような気がしていたのですが、今日改めて見てみると思ったよりダークな(かつコミカルな)お話なのだと気づきました。普通の恋人同士の別れのお話だと思っていたけれど、どうやら男性は彼女のところを「永遠に」去ろうとしてみるみたいです。「行かないで」と歌うMarcellaの前に死神のSiobhanがニヤニヤ笑いながら登場します。最後には弱々しい死にかけの病人を二人でとりあいっこするのですが、Shakespeare's Sisterの二人、どちらも怖いです。線の細い病人の男の人が気の毒になります。……とは言え、しかし詞を読む限りでは、これが唯一の解釈というわけでもないとは思いますが。 YouTubeでビデオをどうぞ。 *AllMusicでもビデオを見られます (画質はこちらのほうがよいですが、もしかしたら登録しなければ見られないかもしれません。ともかく、Shakespeare's Sisterのページヘ→、そのページの一番下にビデオへのリンクがあります) "Creep"と同じように、"Stay"と言えば(と言っても、同じ題名の曲は数え切れないくらいあると思いますが)Lisa LoebかShakespeare's Sisterという判別方法もあるでしょうか? しかし、こちらの場合、もう少し違いは微妙かもしれません。わたしはLisa Loebのさりげないお洒落さ具合というか、プチインテリちっくな、ミニおたくちっくな感じがダメ。ナイスすぎますね。Shakespeare’s Sisterの"Stay”の大げさな感じ、ちょっと危ない領域に足を突っ込みながらもポップな感じが好きです。この曲が入っているアルバム、Hormonally Yoursのジャケットを見てこの人たちが誰を思い出させるか(というか本当は逆なんですけど)わかりました。この前、取り上げたThe Dresden Dollsです。濃いメイクアップ、芝居がかった仕草や表情に音楽、こういうところ似ているかもしれません。 ところでShakespeare's Sister自体はどうなってしまったのでしょうか、謎です……。 原詞はこちら 行かないで 歌詞:Shakespeare’s Siter 訳:Gil-Martin この世界がくたびれてきたから 逃げようと思っているのなら わたし、あなたとどこにでも行く 鎖で縛りつけてくれればいい でももし一人で行きたいって言うのなら わたし、わかってあげられるとは思わない 一緒にいて 一緒にいて あなたの静かな部屋で あなたの暗い夢のなかで わたしのことだけを考えて イエスとノー以外はないの もしあなたのプライドが地を這っていても お願い、って言わせて見せるわ 一緒にいて 一緒にいて せいぜいお祈りするがいいわね ちゃんと自分の世界に帰れるように そして自分の世界で眼が醒めるように 夜、眠りにつくときには 誰にもあなたの叫び声は聞こえない あなたが呪いを解いて自分の世界に戻れるかどうかは 時間のみが知っている 一緒にいて 一緒にいて お願い、一緒にいて わたしと一緒にいて わたしを置いていかないで *アーティスト:シェイクスピアズ・シスター 作品:ホルモナリー・ヨアース 「ステイ」 2006.07.04 Tuesday
自己憐憫の王様
この前も書きましたが、先日、Morrisseyのアルバムを購入しました。従って、最近はしっかりMorrissey漬けの日々です。やっぱり新しい(ってもうそれほど新しくないのですが)アルバムも、隅から隅までMorrissey。Morrisseyらしいコード進行にMorrisseyらしいメロディーライン。長年親しんだアーティストのアルバムは、耳に馴染むのが早いですね。安心するアルバムです。
Ringleader of the Tormentors 歌詞も相変わらずのMorrissey。買って来てまず一度、アルバムを聴いてみていたとき、ちょっとリビングを出て帰ってくると、"life is a pigsty"というコーラスが。思わず笑ってしまって、つくづく、あー、やっぱりMorrisseyだー、と思いました。「人生は豚小屋」……こんなことを歌うのは、Morrisseyだけ。究極のペシミズム、自己憐憫の極み。とは言え、このアルバムのジャケットを見ると、世間ずれしていない内気な少年がそのまま大きくなった、とはもう呼べないくらい、Morrisseyのお歳を取られたお姿が。鬢がほとんど白くなっていて、ちょっと哀しくなってしまいます。 今回のアルバムは、死、そのなかでも誰かの命を奪うことについての歌詞が多いですね。と言っても、Morrisseyはいつもそうですが。死、自殺というのは、Morrisseyのお得意の題材ですけれども、こうやって歳を重ねてから言うとそれなりに重みがある感じがします。特に、"In the Future When All's Well"という歌では、未来、すべてがうまく行っているときがやってくるという想像する悲しいゲームをいつもしているんだ、そしてうまくすべて行っているときに死を待つのだと言いながら、そのなかで、"Living longer than I had intended, something must have gone right?"と言っています。これはMorrisseyの実感なのかな、という気がします。The Smiths時代からの彼の歌詞を考えると、彼はこの歳までこうやってまともに生きていることは想像していなかったでしょう。ということは、何かを彼はうまくやってきたんだろうか? そうだと思います。 でも、何かを間違ってしまった場合の歌が下に訳した"The Youngest Was The Most Loved"です。このビデオはこの歌の主人公の殺人犯に扮したMorrisseyが建物から出てきて、報道陣が取り囲むなか、警察に導かれてパトカーに乗る、というそれだけのビデオです。そしてMorrisseyは"lop-sided grin"(ゆがんだニヤニヤ笑い)を見せながら車に乗み、さもおかしそうに笑うのです。こうやって見ると、結構怖い。年老いたMorrisseyのような変質者っていそうです。 この歌詞によれば、どちらかというと甘やかされてしまったために殺人犯になってしまったと言っています。世の中を、自分を恨んで、いつも死を考えているMorrisseyの歌の主人公は、それほど甘やかされることなどなく育ったという印象がありますが、この歌の主人公は蝶よ花よとかわいがられて、世間の厳しい眼から守られて育ったために、殺人犯になってしまうのです。そして、子供たちのコーラスとともに、サビの部分でMorrissey はこう歌います。「人生において、正常といえるものは存在しないんだ」。みんなこれが正常だとかあれが正常だとか言うけれども、何が正常かなんて誰にもわからない。……もっともです。Morrissey、自己憐憫の王様もとうとう大人になってしまったのでしょうか? You Have Killed Meのビデオはこちら The Youngest Was the Most Lovedのビデオはこちらから 末っ子は溺愛されていた 歌詞:Morrissey 訳:Gil-Martin 末っ子は溺愛されていた 末っ子は庇護されていた わたしたちは彼を世間の厳しい眼から守ってきた そして彼は殺人犯になってしまったんだ そっくり返った鼻が上を向き、 いたずらっぽい眼がそばを離れないでと叫んでいる 「人生には正常なんてものはない 人生には正常なんてものはない」 末っ子は溺愛されていた 末っ子は愛らしい子供だった 貧しい家の小さな男の子 そして彼は殺人犯になったのだ こんにちは、と挨拶をすると頬に紅が差す 内気さを隠そうとゆがんだ笑みを浮かぶ 「人生に正常なんてものはない 人生に正常なんてものはない」 末っ子は溺愛されていた 末っ子はかわいらしい子供だった 彼の前には幸運が広がっていた 美しい妻が彼のそばに寄り添っている 末っ子は溺愛されていた 末っ子は天使のような子供だった わたしたちは世間の冷たい眼から彼を守り 彼は殺人犯になった 「人生に正常なんてものはない 人生に正常なんてものはない」 アーティスト:モリッシー 作品:リングリーダー・オブ・ザ・トーメンターズ 『ザ・ヤンゲスト・ワズ・ザ・モースト・ラブド』 2006.07.02 Sunday
帝国主義の罪とイギリス紳士
久々の映画評です。絶対一息ついたら映画見るぞー、と思っていたのですが、さて、と思って上映中の映画を調べてみると、それほど見たいものが見つからず、やっぱりDVDかなとも思ったのですが、『ナイロビの蜂』が終わりかけというのを見つけて見に行ってきました。おまけに途中に寄ったHMVで、Morrisseyの新しいアルバム、Ringleader of the Tormentorsが1,690円というのを発見して、即購入。先日アマゾンで2,500円くらいするっ! と思って、あきらめたところなので、満足満足。やっぱり足を使わないとだめなのね。
ところでこの『ナイロビの蜂』ですが、去年の夏、確かアメリカで映画のトレイラーがテレビで流れていて見たいなと思った記憶があります。The Constant Gardener。タイトルに惹かれて見たいなと思っていたのですが、公開前に帰国してしまったのだと思います。そして、しばらく前に日本で公開が始まったとき、『ナイロビの蜂』、むむ? もしかして、と思いつつ、キャストがRalph Fiennes, Rachel Weiszというのを見て、同じものであることを確信し、見にいこっと思ったまではいいのですが、日本のテレビコマーシャルで、霊能力者(?)の江原啓之とか言う人がもっともらしく宣伝しているのを見て、ちょっとためらっていました。わたし、なんかこの人が怖いのです。薄気味悪いのです、あのいかにも人のよさそうな笑顔が。霊能力者と言われる人って、人を泣かしてやろう泣かしてやろうってところにうんざりで、John Edwardを見るたび(この人→http://www.johnedward.net/)、このペテン師めがっ、と思うんだけど、江原って人はそんなことを思う前に怖くてこの人の出ているテレビが見られないのです。 といった理由で見ないかと思われた、『ナイロビの蜂』ですが、映画自体はまあまあといったところでしょうか。かなり謎解き的な要素が大です。John Le Carré原作なので当たり前といえば当たり前なのですが。しかし、なんと言ってもこの映画、Ralph Fiennes(そう、ラルフ・フィネスと書いて、レイフ・ファインズと読む、その彼)の映画ですね。このイギリス上流家庭の出身であり、エリート一族でありながら、純粋で、かつ少々内気でというこの役は、彼しかあり得ない! あの切なく哀しげな眼! そしてもちろん、Ralph Fiennes in Africaってことは、彼の出世作であるThe English Patient(『イングリッシュ・ペイシェント』)を思い出さないわけにはいかないでしょう。 ということで、考えてみたのです、Ralph Fiennesというイギリス人男性俳優のことを。実はあまり金髪碧眼男性って、わたし好みじゃありません。碧眼はどっちでもいいのですが、金髪の成人男性ってそれほど魅力的だとは思いません。小さな男の子の金髪だとかわいらしいのですが、大人の金髪ってそれほど柔らかくもないし、柔らかいと禿げてるし。そうじゃなきゃ、なんだか人工的な感じだし。……それはともかく、そんなわたしでもこのRalph Fiennesには参ります。この俳優、イギリス人紳士という(わたしの、そしておそらく多くの人の)妄想を完璧に演じてしまうのですね。 アフリカの地にあるイギリス人という場合、どうしても大英帝国の植民地にやってきている貴族、支配者としての白人という連想は逃れ得ません。幼いころに読んだイギリス小説の影響か、どうしても植民地にいる白いスーツを着ている大英帝国の貴族というイメージにそこはかとない憧れを抱いてしまうわたしなのですが、大人になると、そのイメージが憧れを抱いてはならないものであり、実は人間の欲と血がその白いスーツの下に隠されていることを知って複雑な気持ちを抱くようになりますよね。だけれども、Ralph Fiennesは帝国主義の罪を許させてしまう、または一時的に忘れさせてしまう、われらが平民の憧れのイギリス紳士を体現しているような気がします。 今回の『ナイロビの蜂』では、彼はアフリカに赴任しているイギリスの外交官。いいとこのお坊ちゃんですね。でも、gentleman’s clubではなんとなく居心地が悪そうだったり、押しの強いRachel Weiszにもはにかみながら対応したりするのです。『イングリッシュ・ペンシェント』でも当然のようにエリート一族のご子息ですが、もっともっと内気な感じでした。が、何よりもイギリス紳士でありながら、どちらの映画でも彼は西側帝国主義の罪になぜだか加担しない男として描かれているところがポイントでしょう。 『イングリッシュ・ペイシェント』では、Ralph Fiennesは第二次世界大戦に巻き込まれながらも、自分は大英帝国の利益目的の活動からは距離を保ち、実際、後には裏切りもする。ま、ハンガリー系というところで純粋なるイギリス紳士ではないものの、イギリス貴族なのに、大英帝国の欲と血の論理には少々無縁な存在として、どちらかといえばそれによって苦しめられる存在として描かれるのです。また、『ナイロビの蜂』ではケニアはもはや植民地ではありませんが、元宗主国であるイギリスの外交官たちがその特権を利用して、甘い汁を吸おうとしています。まさにネオ帝国主義。しかし、またまたRalph Fiennes演じるJustin Quayleはそんなあくどい企ては露知らず。その企てを何とかして暴露し、中止させようとする妻でさえ、彼を巻き込まないよう努力するのです。そしてもちろんその白人男性たちの悪徳を暴こうとする人々は、Rachel Weisz演じる少々無鉄砲で熱狂的リベラルな女性、アフリカ人の男性医師、インド系女性という顔ぶれ。権力を握る白人男性への対抗勢力による団結ですね。しかし、イギリス貴族のRalph Fiennesだけは、どちら側にも特に属さず、ただただ無実。 ある意味では、その「蚊帳の外状態」は間抜けとしか言いようがなく、Rachel Weisz演じるTessaがアフリカ人医師との情事をうわさされるように、彼のイギリス人紳士としての男らしさに対する疑問が呈されてもいる、とは言えます。ところが、好都合なことに二人の間のうわさは嘘であるだけでなく、Tessaが情熱をかける仕事に対して欠くことのできない協力者であるアフリカ人医師、Arnoldはゲイだと暴露されます。つまり、ここで植民地側の男性性が無力なものであり、「本物の男性ではない」という帝国主義側からの見方をある種、肯定する見方が提示され、同時にいつも蚊帳の外で頼りなかったイギリス人紳士は「無能」ではなく、まだ「男」であると肯定されているのです。 そんななかでただひたすらRalph Fiennesは切なそうに傷ついた眼で遠くを見つめるわけです。妻に裏切られていたかもしれない男、さまざまな陰謀が渦巻く中で純粋でいられる男、裏の事情をすべて知ると、自分の地位や立場はすっかり捨てて、「高貴な」行動に出る男。ほら、許せちゃうでしょ、帝国主義の利益を享受しているはずのイギリス貴族も。しかも、すべてを投げ打って愛のために死んじゃうんですよっ! 世の少女漫画ファンの、そしてイギリスアクセントにコロっと参るアメリカ人やらその他の女性の心をワシヅカミっ! ってなことで、Ralph Fiennesは永遠にわれわれの憧れのイギリス紳士であり続けるのです。あの切ない眼にやられてしまいますね。もう四十三歳になる男なのに、ということはおじさんなのに、あんな眼をされると、頭を掻き抱いて「大丈夫よ、心配しないで」と言ってあげたくなってしまう。いやー、妄想のイギリス紳士にやられてしまいました。 |
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