Gil-Martinの部屋

Gil-Martinの愛する音楽、感じたことなどなど

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ロシアから来た"girl with a piano"
音楽はどうしたんだ、音楽は! 忘れてしまったのか! 裏切りものめ! という声が聞こえてきそうなので(ってそこまで期待して下さる方はいないと思うのですが)、今日は音楽について。

でも、今、新しい音楽が聴きたい時期にあるので、CDをオーダーしている最中なのです。おまけに海外のサイトだと送料を節約するために何枚か同時に注文したいので、「在庫切れ」になっているものがまた入荷するのを待とうと思ったりして……。この前、あまりにも在庫切れが長いので、文句(というか催促)email書いてしまいました。でも、いつ入るかまだわかんないよー、という返事が返ってきた。ちょっと哀しいです。
Songs
ということで、そのついでに買いたいんだけれどまだ注文していないアーティストを見切り発車で紹介してしまいましょう。わたしにしては珍しく青田買いっぽい感じです。2004年にメジャーデビューしたRegina Spektor。Orangeflowerさんが紹介されていたPandoraで見つけました。気に入って同じステーションを延々と流しているうちに、何度も流れてくる彼女の曲を一緒に歌うようになってしまい、もうこれは買うしかないのかなあと思いまして。

とは言っても、わたしが好きなのは、2004年のメジャーデビューしたアルバムSoviet Kitschのほうではなく、その前の2002年の個人録音の方のアルバムSongs。ということは、青田買いといえども、これでさようなら、かも。2002年のSongsの方がピアノ一本でシンプルないわゆる"girl with a piano"アルバムなのに、2004年のSoviet Kitschはもっと作りこんでパンクっぽい要素まで取り入れ、却って個性がなくなってしまったような気がします。でも、このアルバムなら日本のアマゾンのマーケットプレースから激安で買えますよ。
Soviet Kitsch
Soviet Kitsch
一番最初のアルバム、11.11もピアノ中心で、後の二つに較べるとよりジャズっぽい。いいです。ある意味、この最初のアルバムが一番、大人っぽい気がする。特に"Back of a Truck"はブルージーでお奨め。でもこのアルバム、iTunesのみなんです。む……。使ってないし。ふーんだ

Songsは三枚のなかでもっともシンプルで、使われている楽器がほんとにピアノだけ。なので、声も楽器的要素を果たしているところが楽しいアルバムです。どうやらこのアルバムをThey Might Be Giantsのドラマーが気に入って、三枚目のプロデューサーを紹介したらしいですね。個人的にはあまりそれが吉と出た気がしないのですが、ともかくSongsはThey Might Be Giantsに評価されたと言われれば、納得するアルバムです。

正直言って、最近多い女性アーティストの一人に終わってしまう危険はあると思います。エキセントリックさを売り物にした、ピアノを弾く女性。BjorkがTori Amosのようにピアノを弾いたらこうなるかな? という感じかもしれません。もっと似ている人、いる気がしますが、名前が出てきません。絶対いるんだけど……。

彼女は幼いときにロシアからニューヨークに移民してきたロシア系ユダヤ人だそうです。The StrokesやらKings of Leonとツアーに廻ったそうですから、かなりの人々の耳に触れる機会があったはずです。これから来るのか、いや、来ないのか?

彼女のサイトからアルバムの曲が聴けます。Soviet Kitsch11.11は全曲短めのサンプルですが、Songsは全曲、最後まで聴けますよ。

このページから、上のバーにある「Music」をクリック→それぞれのアルバムの名前が書かれたカセットテープの写真をクリックすると、それぞれのアルバムのRadio Playerが開きます。

わたしのお気に入りは、"Samson," "Oedipus," "Daniel Cowan"です。いつも一緒に歌ってしまうOedipusの歌詞を下に訳してみました。

原詞はこちら

オイディプス
歌詞:Regina Spektor
訳:Gil-Martin

わたしは王の32番目の息子
王にとって32番目の子供
まだ宵の口に生を受けた
二本の眉毛を身にまとって
それだけがわたしの衣裳であった
まぶたを開いてこの世を眼にしたときには

母は女王たちの墓のそばに立っていた
だが、セックスマシーンなどでは決してない
彼女はいつも身を清めておきたかった
世界が猥褻になりつつあると信じていた
だが彼女は自分の部屋に下がり
わたしたちは他人のままでい続けた

わたしの姿を見ると母はとても哀しくなった
わたしに触れると母はとても哀しくなった
わたしを眼にすると彼女はおののいた
わたしに触れると彼女はおののいた

わたしは王の32番目の息子
そこまでにかかった回数はたったの32回
だがわたしはわがままな王子ではない
部屋付きの女中と部屋付きの排便器がある
そして、わたしのようなものが他に31人いる
わたしであっておかしくないものが31人

ときどきわたしは宮殿の壁のそばに立って
空があまりに大きいことに精気を失いそうになる
爪先立ちになって、一目覗こうとする
母の眼と母の肌を
そして彼女は部屋に下がる
そしてわたしたちはまったくの他人でい続ける

そしててわたしはある朝眼を覚まし、思うのだ
オイディプス、オイディプス、オイディプス、オイディプスと
そしてある朝眼を覚まし、わたしは思う
レックス、レックス、レックス、レックスと
そしてある朝、眼を覚ましてまた思うのだ
オイディプス、オイディプス、オイディプス、オイディプスと

32はまだ忌まわしき数
32はそれでも価値ある数
価値あるものにしてくれようぞ
王に長き命を
王に長き命を
王に長き命を

わたしは王の32番目の息子
わたしのようなものが他にも31人
まだ31人生まれるのだ
そのあとにまた31人
ときどきわたしは宮殿の門にもたれて耳を傾ける
愛憎を込めて叫ぶ民衆の声に
彼らは叫ぶ
叫ぶのだ
王に長き命を
女王に長き命を

32はそれでも立派な数だ
32はそれでも価値があるのだ
価値あるものにしてくれようぞ

王に長き命を
王に長き命を
王に長き命を
王に長き命を

*アーティスト:レジーナ・スペクター
 作品:ソングス
    「オイディプス」
 
| gil-martin | 音楽 | 21:29 | comments(5) | trackbacks(0) |
二人でなら地の果てまでも
現実から全速力で逃避しようとしている今日この頃(そんな嫌なことがあったわけでもないのだけれど)、一日一本の割合で映画を見ております。今日は、Code46(『コード46』)。
CODE46 スペシャル・エディション
CODE46 スペシャル・エディション
Michael Winterbottom監督の2003年、SF作品です。ただイメージを楽しむ映画かもしれません。青っぽいアジアのハイテク近未来社会、そこから外に出るとやっぱりアジア、中近東の雑踏と砂漠。O.K., もうクリーシェですね。Blade Runnerに始まり、William Gibsonやらの考える近未来=ハイテク・アジア・雑踏・言語のミックス。

そして、設定もそれほど目新しいものはありません。この近未来では、人工授精によって生まれた人間がたくさんいるので、誰が誰と血縁であるかはわからない。そこで、当局は予め遺伝子的に25パーセント以上の一致が見られると、生殖行動をしてはいけないというルールを作っています。知らないでそういうことになった場合には、強制的に当局(?)に記憶を消去され、そしてその証拠も消去される。遺伝子レベルでの人間の管理というのもおなじみのSFテーマです。パペルとか言うものがあって、それを持っていることによって、都市への出入りを管理もされています。近未来型通行手形ですね。お話の筋としては、このパペルが不正に流通しているらしい、ということがわかり、捜査官であるティム・ロビンズ演じるところのウィリアムがシャンハイのパペル工場で働くマリア(サマンサ・モートン)のところにやってきます。Tim Robbinsは意図的にempathy virus(共感ウィルス)ってのに感染してて、これで人の考えていることを理解できるようになっているらしい。はい、これもクリーシェ。ともかく、WilliamとMariaは恋に落ちるわけですが、そう、二人はCode46を犯すことになってしまう……。

あらゆる近未来的ギミックを用いて、新しい種類の「禁じられた恋」を作り出そうとしたんだな、と感心しました。その当局の介入を振り切って、延々と続く砂漠のなかの道を二人で逃走する部分は、痛快でした。今の時代、「禁じられた恋」なんてほとんどない。禁じられれば禁じられるほど、燃え上がるもんですね、恋なんて。すべてを捨てて、あなたとの愛だけのために生きたい。ああ、誰かわたしをさらって逃げて!

ところが、それに微妙に水を差すのは、Williamが結婚してることです。最初は、ほんとに出張先での一晩の浮気って感じですから。でも何よりもWilliamを演じているのが、Tim Robbinsということに大きな問題があるのでは? わたし、一度もTim Robbinsの演技に感心したことがなくて。やたらでっかい(背、高すぎ!)冷たい眼をしたテディベアって感じがするんですよ。いつも冷たい。笑顔がほとんどない。あっても、心の底からと思えない。感情がない。ここでもそうでした。元々、官僚的な人間として描かれているのはいいとしても、Mariaに出会ってからはもっともっと本気で恋に落ちているように見えてもいいのに。駆け落ちするほど、ほんとに彼女のこと、愛しているのかなあ、という疑問がありました。Tim Robbinsはやっぱり死んだ眼をした、でっかいテディベア。

もう一つ、問題があるとしたら、二人の年齢差でしょうか? この話の設定からして、これほど年齢差がある必要はない。Williamにまだ小さな子供がいることになっていることから考えれば、本当は30そこそこくらいの俳優さんでもよかったはず。Samantha Mortonがこの当時、25歳くらいだから、ちょっとこの年齢差に疑問が。Samantha MortonはMinority Report(『マイノリティ・リポート』ですごーく不思議な雰囲気をかもし出す透視能力者として出てきたし、In America(『イン・アメリカ』)にも、そしてもうすぐ公開されるLibertine(『リバティーン』)にも出てます。決して美人じゃないけど、妙に惹きつけられる存在感ある女優さんです。

そして、もう一つ、「ああ、わたしを連れて逃げて…」とちょっと盛り上がっていたわたしを、かなーりへこませた部分がありました。それはセックスシーン。これはかなり趣味が悪かった。あまり詳しいことを言うのは避けますが、コンセプトがポルノだと思いました。ひどいです。あれに感動する人はヤバイんじゃないかな。

それはともかく、一応、現実逃避という目的は果たせました。でも、これなら、スタニスワフ・レムの死を悼んで、Solaris(『ソラリス』)を借りればよかったかも。何となく雰囲気は共通した感じでしたから、思い出したんですけど。ジョージ・クルーニーのお尻はともかく、あの映画好きなんです。


| gil-martin | 映画 | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
今さらだけど『バッド・エデュケーション』
遅ればせながら、『バッド・エデュケーション』見ました。いやー、大満足です。ペドロ・アルモドバル監督、本領発揮です。ここ最近の作品を見ていて、彼の語りがますます洗練されてきたことには気づいていました。昔はわりと雑然とした語り口が彼の特徴だったように思います。しかし、『トーク・トゥー・ハー』辺りから、物語が結末に向かってきちんと流れ、大団円に向かって収束していくようになりました。この『バッド・エデュケーション』では、挿話的な部分はまったくなく、無駄なく物語が語られています。構造的には少々複雑にはなっていますが、語りはよりタイトになってます。見やすくなったのですが、これほどすっきりしてくると、彼の彼らしい魅力が失われてしまうかも、と心配でもあります。
バッド・エデュケーション
バッド・エデュケーション
今まで見なかった理由の一つは、公開されたときにはカトリック教会の神父による性的虐待で世間が大騒ぎになったことがまだ記憶に新しく、ヒステリックなカトリック教会批判が気になってしまっていたからです。もちろん、アルモドバルだから、世間一般のありがちな見方とはまったく違っているだろうことは、容易に予測ついたわけですが。

アルモドバル、何がいいって、やっぱり……愛に溢れていることでしょう。社会からの脱落者、弱者、駄目な人間、ずるい人間に対する彼の視線がすごく暖かい。『オール・アバウト・マイ・マザー』に続いて、トランスヴェスタイトというか、トランスセクシュアル(の途中?)で、なおかつヤク中の人々が主要人物として出てきますが、アルモドバルは駄目な人を切り捨てず、その人たちが周りに迷惑をかけ、害を与えていることを認めながらも、彼らだって真底から悪い人たちじゃないんだと愛を持って描きます。同情に値しない人に対する同情の念さえ、彼は観客に抱かせることができる。道徳的に許せない人のはずなのに、愛される価値がない人ではないのだ、と思わせることができるのです。

『トーク・トゥー・ハー』でベニーニョを演じていたJavier Camaraが、劇中劇のなかで、聖子ちゃんカットのトランスヴェスタイトとして出てきたのは、とてもうれしかったです。『トーク・トゥー・ハー』であのしゃべり、あの仕草でストレートだった、ってのが、ほんと不思議でしたからね。気持ち悪いんだけど、憎みきれない人です、あの人。

アルモドバルの作品に出てくる、トランスヴェスタイトの人たちって、みな同じようなしゃべり方、仕草をします。もちろん、ああいうのがステレオタイプだと思うけど。演じている俳優さんがみな本当のトランスヴェスタイトではないはずなので、アルモドバルの指導かしら、なんて思ってしまいます。

BadEducationでも、この映画、まさに、まさに萩尾望都、そして、竹宮恵子の世界ですよね! 全寮制の男子校で芽生える男の子同士の淡い恋と性。後のほうのトランスヴェスタイトとかドラッグ中毒とかのドロドロな部分はごく近年の萩尾望都ですが、学校の部分はまさに『トーマの心臓』やら『風と木の詩』を彷彿とさせます。日本の少女マンガファンの人々のために、本物本場の人が作ってくれた映画みたい。天使のような歌声を持つ、つぶらな瞳のイグナシオ。校長であるマノロ神父の欲望、イグナシオとエンリケのさわやかな恋。他の人の策略によって、引き裂かれる二人……。ああ、マンガみたい。


でも、スペインだけに生徒と神父さんでサッカーするんですね。あのとても印象的なゴールキーパーの僧衣姿の神父さんが横っ飛びする部分、あの後、真っ黒の僧衣が土ぼこりで汚れてしまうよー、と心配になりました。

それにしてもメヂカラのすごい映画でした。劇中劇のマノロ神父の欲望のこもった眼。監督のエンリケがフアン/アンヘルを見つめる、愛と哀しみのこもった眼。自分の計画を成し遂げるために必死で気に入られようとするフアン/アンヘルの眼。でも、一番は、マノロ神父の眼ですね。彼が抱いていたのがただの欲望ではなく、恋なんだ、とあの眼で表現していました。こう描写するところが、アルモドバルだと思います。権力によって、少年を思うままにした性的虐待者なのに、彼は恋するあまり弱者でもある。そして、このマノロ神父が還俗したベレングエルが、フアン/アンヘルに向ける眼も恋する弱者の眼です。

また、フアン/アンヘルに向けられるカメラ、これは本当に本当に彼を性的欲望の対象として映すカメラでした。カメラはエンリケの、ベレングエルの欲望の視線でもあったのです。この辺り、やっぱりアルモドバル。ストレートの監督には撮れないかも。

Gael Garcia Bernalの役(フアン/アンヘル)は、役者冥利につきるいい役ではないでしょうか? 人を利用し続けるずるい少年。美しく無邪気に見えるのに、彼の考えることは自分の利益だけ。アンヘル(=天使)という名前に変え、天使のような自分の美しさを使って、人々を次々に傷つけていく。かわいらしい八重歯なんか光らせながら、次々に男たちを毒牙にかけていく。エンリケはイグナシオを愛するあまりフアン/アンヘルを許せないわけですが、フアン/アンヘルに対して抗いがたい魅力を感じています。でも、それは彼の美しさや見かけの無邪気さではなく、彼の底に潜む冷たさ、薄情さ、身勝手さから来ているんじゃないかなと思うのです。実際、エンリケはフアンが嘘をついていることを知ってからのほうが、彼に強く興味を抱いているようです。

アルモドバルの映画はいつも色調が印象的です。原色系でキッチュでポップ。家のインテリアもとても素敵。スペインの家はみんなああいうインテリアなのか、と思ってしまうのですが、違うでしょうね。特にイグナシオとフアン/アンヘルのバレンシアのアパート、すごくかわいかったです。でもあんな内装の家に住んだら、疲れるかなあ……。

今回は、劇中劇のイグナシオ/アンヘルの緑のドレスとオレンジのボレロ(だったかな?)の組み合わせも素敵でした。エンリケもイグナシオの母親を訪ねていくとき、緑のスーツに、オレンジのシャツ、靴下という同じ配色でしたね。でも、これも日本人には難しい色の使い方かな? 最近、個人的には緑色が流行でもあるので(ってもう二年くらい続いてますが)、何だか素敵な緑色の洋服を買おうかなあ、とお洒落心も刺激する映画でした。……そういや、『トーク・トゥー・ハー』を見たときは、衝動的にアディダスのバッグを買ってしまったんだった。オリジナルのTrefoilマークのホールドオールが欲しくなって、わざわざebay.UKで探してしまったのです。アルモドバルって、購買意欲を刺激する監督でもあるみたいです、わたしにとっては。



| gil-martin | 映画 | 22:01 | comments(0) | trackbacks(1) |
ちょっとオバサマ風小言
最近、気になること(オバサマ風と書いて、オバサマと言い切らないところがミソか?)。

世の中にブログが溢れるようになって(って自分もその一人だけど)、校正されてない活字を眼にする機会が増えましたよね。ブログを書いてみて思うのですが、一応、わたしは下書きはするものの、アップした後で少なくとも二、三の変換間違いやら単なる間違いがあって、ひゃー、これ誰か読んじゃったかなあ、恥ずかしいっ、と思って急いで直すのですが、堂々と間違えたままにしている人も多い。気づかないとか、見直さない、忙しいとかと言う理由もたくさんあるとは思うのですが、もともと間違えている人もいることでしょう。割と読者の多そうなブログなのに、アップされて少々時間が経っているらしい記事でも、誰も指摘しないのか間違えたままになっている。みな頭のなかに広辞苑があるわけではないし、自分の周りにも「おやおや、本当にあなた日本語が母語なの?」と言いたいくらい国語が死ぬほど苦手だったらしい日本人もいるので、この一億総ブロガー状況では日本語の間違いがネット上に氾濫するのも当たり前と言えば、当たり前だけど、すごく単純な間違いだと結構気になります。

古くはワープロ、今は当然コンピュータ(のワープロソフト)で文章を書くようになり、初めて自分の文章が印刷された活字になったのを見たときのことを覚えている人はわかってくれると思いますが、手書き文字と活字のインパクトは相当違う。自分の親族や友人のものすごい当て字や仮名遣いで書かれた手書きの手紙を読んで、フフフフッ、と思うのと、ネット上で他人の堂々たる当て字や仮名遣いを日常的に見るのには大きな差があります。活字というものには、潜在的に正当性を主張している部分があると思うのです。小さい頃から間違って揺れのある表記を学ぶ若い人たちは、何が正しいのか混乱するのじゃないでしょうか。

だから、わたしもちゃんと襟を正して、変換間違いや言葉の間違いにもっと気をつけたいと思います。(なので、もしご覧になっている方、間違いを見つけたら、すぐさまprofileのところからわたしにメールしてください。訂正します!)。

いろいろ小うるさく言ってみたものの、いちばん気になるのは、すごく単純な「こんにちは」という表現。「こんにちわ」って書いている人がネット上ではわんさかわんさかいるんですね。この「わ」が何だか気持ち悪くて。意図的なのかもしれませんが、それならなおさらのこと。解読しようとするたびに「イーーーーーッ!」って叫んでしまいそうになる、女子高生たちの書く小文字いっぱいの文体と同じように感じてしまうのです。わたしってちょっと間抜けで馬鹿だけど、かわいいでしょ、と主張しているみたいな。「ほわ、ふわ」という語感。かわいいの押し売り(のちょっと控えめバージョン)。もしあなたがあの小文字一杯の発音不可能な表記スタイルに対して違和感を感じていて、もし自分は「ちょっと間抜けで馬鹿だ」というキャラクターを主張したくないのにこの仮名遣いをしているのだったら、考え直してください。わたしはあなたに「こんにちわ」と書かれるたびに、そういう人だと思っています。

二つ目。敢えて言います。すごく少数派です。恐ろしく大胆なことを言います。今、現代女性にはやっているシャギーがたくさん入っている髪型、あれ、わたしにはmulletに見えるんです。コレ。基本的には前と横はショートなのに、後ろだけ梳いた髪がドローンと長い髪型です(今の若い日本女性の場合、横の髪は短くないと思うけど、でも似てる)。これはアメリカでは田舎もんの代名詞です。カントリー歌手(ということは日本で言えば、演歌歌手)の髪型です。ずっと昔はカントリーじゃないけど、Richard Marxって歌手もいました。顔デカでした。Mulletをからかうサイトもたくさんあります。こちら→1. 2. 3. 4. そして衝撃のHalle Berryのmullet!(合成です)

もともと意図されているように、髪全体にちゃんとカールがかかっていて素敵にふわふわしている場合は女の子らしくてかわいいなあと思うのですが、パーマッけがないまっすぐとか少々のくせ毛の場合、まさにmulletです。この髪型の人はいつも素敵にくるくるセットしてください。お願いです。そうでなければ、袖の部分を端処理せずに切り取ったデニム生地のベストを強制的に着せたくなります。そして、言っちゃいけないけど、「あなたこういう人を目指してるの?」と訊きたくなります。絶対、十年後、この髪型をしている自分の写真を見て、後悔するはずです。ま、誰でも後で当時の流行の髪形や洋服を身につけている自分を見て、恥ずかしくなるんですけどね。

そして、かなり昔からあったこの批判についての反論です。電車のなかでお化粧していたり、何かを食べたりする人への苦言。今どきの若い人は、若い女性は、という批判の一環として、よく言われています。羞恥心が失われていっている、とかってね。でも、東京に帰ってきて気づきました。電車のなかで、羞恥心がないのは、常識がないのは、公共の場にいるという意識が著しく欠如しているのは、若い女性よりも多くの場合、スーツを着た(いや、着てなくても)中高年の男性です! まず、お下品なスポーツ新聞。若い女性が電車のなかで化粧していることが、他人をちゃんとした人間として意識していないとか、品格がないとかかんとか批判する方々! 公共の場所で、若い女性がそのすぐそばにいるにもかかわらず、巨乳水着またはヌードの写真を堂々と人目にさらすオジサマはどうなのですか?(ところで、日本のグラビアモデルってのは、自然派巨乳の価値が高いためか、少々緩くないですか? お腹周りのぷよぷよ感とか? ……いや、わたしも引き締まっているわけではないですが。ついつい中吊り広告のグラビアアイドルのお腹辺りをジーッと診てしまいます)。あのオジサマたちは、彼らの周りにいる人間たち、特に女性たちを人間として認知し、常識をわきまえた行動をしているのでしょうか? 

そして、そういうオジサマ方の、人前に出すことが許されそうもない身だしなみ。加齢臭だとか呼ばれるようになったそうですが、本当に臭います。多くのオジサマ方。口臭でしょうね。タバコのせいもあるかもしれません。歯磨きをする、歯医者に行く、ガムを噛む、など様々な対策があります。ご存知でしょうか? 本当に周りに人がいること、わかってますか? 気づいていますか? あなたのすぐそこに他の人間がいて、否応なくかがされているんですよ、あなたのニオイ。そして、なぜ? というようなところから、毛を生やしている方々。一刻も早く処理してください。お願いです。

電車のなかでお化粧する女性のほうが身だしなみを整えている(その最中)と言う点で、整えることなど夢にも思っていない人々に較べたら、ずっとずっとましです。昔から女性の身だしなみやらマナーはうるさく言われるのに、まだまだ男の人は好き勝手し放題なんですね。チョイ悪オヤジとかなんとか言ってますが、お洒落の前にすることが山ほどある人のほうが多いですよね。とんでもなくダサくてもいいです。臭くなきゃ。汚くなきゃ。変なところから毛が生えてなきゃ。お願い!

でも、一応同情に値することがあるとすれば、おそらくオジサマ方は老眼になっておられて、自分の姿があまり見えなくなっているということがまず一つ。もう一つは、愛の欠如。人生の伴侶たるべき女性が、彼らの姿をよく見てくれてないんですね。「あなたのことは隅々まで好き――どこを見ているかよくわからない細い眼も、このちょっとたるんできた頬も……あらっ、あなた、剃り残しがあるわよ、いやぁだー」ってなことがないんでしょう。そう考えると小汚くて臭いオジサマも少々許せるか……いや、許せん

そして、オジサマよりも少々若めの方に多い気がするのですが、道路上につばを吐く人。あれ、何? なんでつばが湧いてくるんですか? いつもレモンとか梅干とか思い浮かべながら街の中を歩いているんですか?

あーあ、ぐちぐち書いちゃった。自分のなかのエネルギー量が低下してて、ネガティブな方向に突っ走ってるんですね、わたし。もっと元気出して、愛する音楽について書けるようにしなくちゃ。
| gil-martin | つれづれ | 21:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
またまたDavid Cronenberg
David Cronenberg's Spider

なんだかパッとしない週末だったので、昨日はビデオを借りてきました。どうもパッとしないときには、物語性の強い映画を見るのが一番。本当の目的は、Atom Boyさんが奨めてくれた映画(ここ)を借りることだったのですが、借りられてました……。現実逃避したい気持ち満々だったので、The Machinist以来評価がウナギノボリのChristian Baleも出ているSF、Equilibriumを狙って行ったのですが……。ちゃんとネットで、邦題は原題からまったく予測のつかない『リベリオン』だってことまで調べて行ったのに。英語カタカナのタイトルで、原題とまったく違うのって、一番想像するのが難しいよねー。しかもほぼ正反対の意味だし、この邦題と原題。

それで、なんとなくSpiderを借りてみました(サイトはこちら)。David Cronenbergの2002年の作品で、この前見たA History of Violenceのすぐ前の作品です。でも、劇場公開されたときのことをまったく覚えてないのです。なんででしょ? わたしがボーっとしてただけなんでしょうか? 
スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする
スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする
…あ、この「少年は蜘蛛にキスをする」って思わせぶりで意味がありそうな日本語副題ですが、たいして意味がありません。

見ることにした決め手は、主役のRalph Fiennes。読み方を知らなければ(イギリスの人は読めるのかな?)、決して読めない名前。「ラルフ・フィネス」じゃないの、「レイフ・ファインズ」なの。

彼は今、好きなことがやれる最高のポジションにいる感じですね。The English Patientなどで築いた名声と評価を足がかりに、J.LoとMaid in Manhattanに出たり、Harry Potterに出ているので「はははっ、結局、世の中、金だよ、金!」と思っているのかと思いきや、他方でこんな映画にも出てるんです。

そのRalph Fiennesが面目躍如、よい演技をしてました。素敵なイギリス紳士ぶりが魅力のRalph Fiennesが、労働者階級の小汚く、だらしなく、ぼそぼそしゃべる頭のおかしな人になりきってました。決め手(のひとつ)は、つんつるてんのズボンですね! やっぱりパンツ丈大事です。あのRalph Fiennesが見るからに近寄りたくない人になっているんですもの。

Sleepy HollowThe Hoursに出ていた、Miranda Richardsonも素晴らしい演技でした。簡単に説明すると、精神病の人たちの住むhalfway house(社会復帰を促す施設で、日本語では「中間施設」だそうです)らしきところに住み始めたRalph Fiennesが、East Endで過ごした少年時代を回想し、蜘蛛の糸のように絡まった過去の想い出を紡ぎ出し、そして解いていく、というお話です。

でも、この映画、DVDを手に取ったときからわかってたんですが、原作本読んだことがあるのです。あまりにも昔のことなのでほとんど覚えてないし、覚えていたのはお父さんが配管工というか水道関係の仕事をする人だってことだけ、と思っていたのですが、見ているうちに決定的な場面で一番大事なところを思い出しちゃいました(キャスティングのせいでもあったんですけど……ある意味、ネタバレ)。なので、フェアな評価はできませんが、あの本を読んだときに感じた、じめじめ、ジュクジュクした感じはよく表現されてました。
Spider (Vintage Contemporaries)
Spider (Vintage Contemporaries)
翻訳も出たみたい。
スパイダー
スパイダー
パトリック マグラア, Patrick McGrath, 富永 和子

すごくよかったのは、この映画のオープニング・クレジットです。壁やら、天井やら、コンクリートやらの染みや汚れでできた、蜘蛛の形を延々、いくつもいくつも映し続けます。内容が内容だけに、ロールシャッハってことかな? この薄気味悪さ、とても効果的でした。David FincherのSevenのオープニングに匹敵するくらい印象的です(もうちょっと地味だけど)。原作読んでなかったら、もっともっと楽しめたであろう佳作でした。Ralph Fiennesが好きな人、地味なミステリ、特にスローペースのじわじわ来る心理スリラーが好きな人にはお奨め。
| gil-martin | 映画 | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
社会派じゃなかったのか……
何となく映画づいている今日この頃、一旦映画って見だすとこれもあれも見ておこうか、と思うわりに、しばらく見ないと(ってわたしの場合、半年くらい平気で見ないことがある)見なくてもいいかなあと思ってしまうのだけれど、今映画見る気が満々なので、することは一杯あるのにも関わらずA History of Violence (『ヒストリー・オブ・バイオレンス』)見てきました。
AHistoryofViolence
この映画、去年、アメリカで公開されたときから見たいなあーと思っていたのです。気になってたんですよね。暴力の問題を考える社会派の映画、だという評価のされ方をしていて、David Cronenbergでもあるし、面白いかもしれないと期待してました。そしてギザギザの傷と白濁した眼のメーキャップをした、名脇役と言えばこの人、Ed Harrisの画像を見て期待は高まり、いつ日本で公開されるのかと見るチャンスを待ってたのです。

正直言うと、期待はずれでした。ここまで期待しなければ、ま、面白いかなと思ったと思うのです。社会派かと思いきや、意外にスリラー/アクション映画だったのですよ、これが。言ってしまっていいのかどうかわからないのですが(やっぱり言わざるを得ないので言いますが)、この物語は、善良なド田舎の一市民で、ダイナー(町の食堂)を経営するTom Stall(Viggo Mortensen)と弁護士の妻(Maria Bello)、ティーンエイジャーの息子と4歳くらい(?)の娘で幸せな生活を送っているところに、トムのダイナーにやってきたならず者のごろつきを眼にもとまらぬ早業でトムが撃ち殺してしまったところから、あれよあれよと言う間にトムが実は超ワルの元マフィアだったとわかる、と言う話です。

このViggo Mortensenのアクションの鮮やかなこと。暴力を問うのであれば、リアルで醜くみじめな暴力を描写すべきだと思うのですが、あれはリアルな暴力じゃない気がしました。ああいうこと、できるの? ほんとに? 不意打ちされて不利な状況にあっても、一挙に形勢逆転して相手をバリバリ倒していっちゃいうのです。そして、おまけに両手で相手の首をゴキッとひねって殺しちゃったりするのよねえ。これはAngelの専売特許だと思ってたのですが。これがAngelですそしてサイトはこちら

Angelはスーパーパワーを持ってるからああいうことできるんだと思ってたのに、普通の人でもできるんだー、ふーん、と感心してしまいました。息を呑む鮮やかな暴力シーンでしたね。

この映画が本当に暴力を問う社会派の映画だと思えなかった理由の一つは、トム改めジョーイが超人的な技を持つ元マフィアだってことです。元マフィアって、そんなにゴロゴロ転がっているわけじゃないので、そうある話ではない。例外的でリアリティに欠ける話をしても、社会問題とはあまり思えない。それになぜジョーイがあるとき突然、思い立ってマフィアの生活から足を洗ったのかが今ひとつ見えなかった。なぜ? 疑問ついでに言えば、なぜマフィアはみなキャディラックに乗ってるの? そういうもんなの? 日本だったら、ヤクザはメルセデスベンツかBMWだと思うのですが、アメリカのマフィアは(って彼らはCusackっていう名前からするとアイリッシュマフィアだと思うけど……)国産に乗ろうという愛国心旺盛な人々なんでしょうかね?

本当に暴力を問うのであれば、父親の過度の暴力性を眼にして、まったくの意気地なし平和主義者だった息子が突然、暴力に目覚める部分にもう少し焦点を絞るべきだったのではないでしょうか? 元マフィアだったことが判明したトム/ジョーイを家族が受け入れられるかどうかは確かに大切だし、まあ、あの結末部分の余韻の残し方はいいとしましょう。だけど、その前のトム/ジョーイが過去を「清算する」部分は、どちらかというとアクション映画的流れに話が移行してしまった気がしました。

超人的な殺人マシーンのトムは、どちらかというと暴力と非暴力の使い分けについて、あっさりさっぱり自分のなかで整理がついているように思います。彼にとって暴力という問題は、(自分を脅かす過去の話を清算してしまえば)ただ単に自分が暴力を行使することが可能な人間である、ということを家族が受け入れてくれるかどうか、ということだけ。

むしろ問題となりそうなのは、暴力によってしか問題を解決できないことがあることを知ってしまった息子が、これからどうやってその事実と対処していくか、ということだと思うのです。人殺しまでしてしまったあの息子は、もはや「負けるが勝ち」で暴力的な挑発に乗らないでいた、あの態度を取り戻すことができないのではないでしょうか? ……加えて言うなら、今まで平和主義者かつ運動神経なしという設定だった息子が、ある日突然、うまく立回りができるのはおかしいのでは? 経験も運動神経もなさそうなのに、電光石火の早業で人を打ちのめしたりできないですよね? 油断していたschool bully(いじめっ子)に不意打ちの一発を与えるのは可能だと思いますが(しかも、普通、ステレオタイプだとそういういじめっ子ってフットボールのスターランニングバックで運動神経抜群という設定だと思うけど、最初の体育のときのへなちょこフライから考えると、そう運動神経はよくないのか?)、相手は数人でしたもんね。そういう血が彼の体の中に流れていると言われれば、仕方ないけど。

ともかく何だか詰めの甘さが気になる映画でした。が、スリラー/アクション映画だと言われれば、うん、そっか、それでいいよね、と思うのです。文句ばっかり言ってごめん、って感じです。結局、グラフィック・ノベル(マンガってこと)が原作ですからね。

Viggo Mortensenにかなりリアリティがあったところは評価したいです。最初は本当にド田舎のおっさんでしたもんね。ジーンズの履き方がアメリカのおっさんですもの。ちょっと、というかかなり手を入れれば、かっこよくなるんだろうけど、どうしようもなくダサい田舎のおっさんって時々いますから。その一方、妻、イーディ役のMaria Belloが中途半端だった気がします。ド田舎ながら、弁護士なので少々普通の人より洗練されている、というのはまあ、納得しましょう。でも年齢を考えると、スタイルがよすぎます。着る洋服も、カジュアルなのに自然にセンスが若かったのです。ああいう人はアメリカの田舎にはいません。改造済みっぽい感じがするスタイルのよさで、無理無理な若作りとかどぎつい服を着ているのなら、ありえるとは思いますが。

MariaBelloでも何だか見たことあるよなあ、この人、と思って、家に帰ってimdb.comで確認すると、Maria BelloというのはThe Secret Windowに出ていたあの人ですね。そうだと思ったんだ。あっちでもちょっと中途半端だったかも。あちらでは、Johnny Deppの相手役を張るだけにもっとゴージャスで美しくあって欲しかった。


そしてJohnny Deppと言えば、映画の前にLibertineの予告編流れてましたが、お願い、誰か本当にお願い、彼にこれ以上イギリス人役をやらせないで! スコットランド人もイングランド人もアイルランド人もウェールズ人も、お願いだからやめてー。彼があのへたくそなフェイクアクセントを使うたびに気になって映画に集中できないのです。好きな俳優なのに、ああ、このフェイクアクセントのせいで嫌になりそう。彼にはイギリス人はできないんだから、もうあっさり諦めて欲しいです。

もう話がずれまくっているので、ずれているままで言いますが、あの東劇の入り口前にあったクレーン・マシーンの『子ぎつねヘレン』のぬいぐるみ、かわいかったです。欲しかったなあ。一人だったので恥ずかしくて(それに絶対失敗するから)挑戦しませんでしたが、相方がいれば必ずやってもらったのに(取れるまで!)。映画は見に行くつもりはさらさらありませんが、あれ、欲しいです。
| gil-martin | 映画 | 23:53 | comments(5) | trackbacks(9) |
もう見るものはない
"I've Seen It All" by Bjork

ラース・フォン・トリアーの映画の音楽について書いたので、続けて彼の映画のなかでもっとも音楽が重要だった映画、Dancer in the Dark(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』)の曲について書くことにします。わたしにとって一番印象的だったのは、"I’ve Seen It All"でした。
Selmasongs: Dancer In The Dark (2000 Film)
Selmasongs: Dancer In The Dark (2000 Film)
Dancer in the Darkは、ある意味でラース・フォン・トリアーの実験的要素と商業的要素がもっともうまく噛みあった映画だったと思います。ミュージカルがパスティーシュとして使われながら、それでもミュージカル部分はミュージカル本来の力を発揮しています。地の語り部分で使われる手持ちカメラのあのぐるぐる感と、主人公セルマの妄想・ミュージカル部分の極彩色の美しい画像のコントラストが効果的でした。そして、セルマ/Bjorkの歌の幸せそうなところがまた、すごく不条理かつ可哀そうでした。もう大笑いするか、大泣きするかしかない二者択一の映画だったのです。
ダンサー・イン・ザ・ダーク
ダンサー・イン・ザ・ダーク
わたしが大泣きと大笑いのループに入ったのは、この"I've Seen It All"が歌われた部分からでした。実はわたし、Bjork扮するところのセルマが言っていることが60パーセントくらいしか理解できませんでした。だって、すごい訛りなんですもの。映画だと人々が自然にぼそぼそって話すことが多いので、訛っているとわかりづらい。アイスランド訛りなんでしょうか。他の人の言うことを頼りに話の内容を理解していたのです。でもBjorkは歌の部分だとはっきり何を言っているのかわかるんですよね。とは言っても、やっぱり英語が母語じゃないせいか、言葉のタイミングがちょっと違う気はします。Bjorkの個性なのかもしれませんが、彼女の歌、ここで切らないよね、っていうところで、言葉を切ったりするのです。

Bjork and Catherine映画の粗筋はこうです。東欧から移民してきたセルマは、だんだん眼が見えなくなりもうすぐ完全に盲目になる日が近づくなか、工場で働きながらお金を貯めて、同じ症状を抱える息子の眼を治してやろうと必死で明るく頑張っているけなげな女性。なのに、さまざまな不幸と不運と頑固さが重なって、彼女の運命は一層の闇のなかへ。……ゴージャスなカトリーヌ・ドヌーブが同じ工場で働いているところが摩訶不思議なのですが。

映画のなかでは、彼女を慕ってくれているジェフ(Fargoで有名になったPeter Stormare――フォン・トリアーの映画でおなじみStellan Skarsgardの息子の名付け親らしいです。スウェーデンつながりですね)に眼が見えないんじゃないのかと迫られて、答えるのがこの歌。貨物列車がやってきて、その荷台に載って踊りながら歌う部分ですね。「全部見たからいいの、見えなくったっていいの、見たいものは全部見た」、ととても美しい映像のなか晴れやかに歌いきります。つらい場面になるとすっと彼女が幻想の世界に入ってしまうところ、これが衝撃的な映画でした。わたしは彼女の現実認識の危うさにショックを受け、また同時にこの歌がとても美しいのに感動して、ダーッと滂沱の涙でした。この後はもうグスグス、ジュルジュルで最後まで。映画館を出るとき、かなり恥ずかしかったですが。

そして、映画のほうでは相手の俳優さんでしたが(だったと思うのですが)、サントラの方ではデュエットの相手はThom Yorkeなのですねん。同じ年に出たPJ Harveyのアルバム、Stories from the City, Stories from the SeaでPJ HarveyがやっぱりThom Yorkeとデュエットしていたので、その年、Thom Yorkeはわたしによってデュエットの王子様と認定されました。

映画の後、すぐ購入したサントラ、Selmasongsはしばらく聴くたびに泣きそうになりました。聴くたびにあの鮮やかな映像が眼に浮かんできて、条件反射でダーッ。"I’ve Seen It All"もそうですが、"In the Musicals"も現実逃避の強烈さに泣けます。「ミュージカルだったら、いつも誰かがわたしを受けとめてくれる」って……。一方、意外に絞首台に向かうときの歌は後で聞くと泣けませんでした。数、数えてるだけだし……。

ある意味、この映画Bjorkのビデオの曲のあいだを物語がつないでいるとも言えました。が、泣かせたのはラース・フォン・トリアーの力。それでもだんだん免疫がついちゃうんですよね。映画自体も一、二年後くらいに何度かインディ映画専門チャンネルで繰り返しやっていて、それを繰り返し見ているうちにそんな簡単には泣かなくなってしまいました……ちょっと残念。ビデオを購入してしまったBreaking the Wavesも五回目くらいには嗚咽しなくなりましたからね。って、ちょっとわたし、泣きすぎ! ですね。

正直言うと、泣かせてくれたラース・フォン・トリアーが懐かしい。嗚咽させてくれたラース・フォン・トリアーが。理性的に考えると泣いている自分に腹が立つような理不尽な話ばかりだったけど、それを忘れさせて泣かせるだけの力が彼の映画にはあったのになあ。最近の映画は理不尽さだけ。イデオロギーの主張に走りすぎているのねー(Michael Mooreじゃないんだからさ……、と言いたくなるところ)。残念、残念。

にしても、ともかくこの映画+サントラは、またわたしのBjorkへの興味を復活させてくれた点でもよかったかもしれません。BjorkはDebutがあまりにもよかっただけに、あらー、なんだかもう下がっていくだけなのかしら、アルバムはもう買うのやめようかと思っていた頃にこれが出て、Bjorkの力再発見、という感じでした。

原詞はこちらから

わたしはすべてを見た
歌詞:Bjork & Lars von Trier
訳:Gil-Martin

わたしはもう全部見たの
わたしは木々を見たし
わたしはそよ風のなかで踊っている柳の葉っぱを見た

わたしは親友の手によって殺される人を見た
そして寿命まで生きずに
絶たれる命を見た

自分がどんな人間なのかはもう見たの
それにどんな人間になるかもわかってる
もう全部見たの
何もこれ以上見るものはない

でも象は見たことないでしょ?
王様やペルーだって?
喜んで言わせてもらうけど
わたしには他に大事なすることがあった

じゃあ、中国は?
万里の長城は見たの?
どんな壁だっていいもの
屋根が崩れない限り

それで君が結婚する男に?
一緒に暮らす家は?
正直に言わせてもらえば
そんなことどうでもいいの

行ったことはないだろう?
ナイアガラの滝には?
水は見たことある
どうせ水よ、そうでしょ?

エッフェル塔は?
エンパイアステートビルディングは?
わたしの脈は同じくらい高かったわよ
生まれて初めてのデートのときには

それに君の髪をもて遊ぶ
孫の手は?
正直言えば
そんなこと別に構わないの

もう全部見てしまった
暗闇も見た
明るいところも見た
小さな火花のなかに
自分で選んだものは見た
必要なものも見た
それで十分
これ以上望むのは貪欲というもの

昔のわたしを見た
未来のわたしもわかってる
全部見てしまったの
これ以上見るものなんてないわ

君はもう全部見た
だから今までに見たものは
全部また見返すことができる
自分のなかの小さなスクリーンで
光と闇
大きなものと小さなもの
ただ覚えておけばいいんだ
もうこれ以上必要ないんだってことを

自分がどんな人間だかもう見てしまった
そして自分がどんな人間になるかも知っている
君は全部見た
これ以上見るものはもうない

*アーティスト:ビョーク
アルバム:セルマソングス
     「アイ'ブ・シーン・イット・オール」 


| gil-martin | 音楽 | 22:31 | comments(4) | trackbacks(0) |
アメリカ人って?
"Young Americans" by David Bowie

昨日、ラース・フォン・トリアー監督の『マンダレイ』について書いたので、今日はそのテーマ曲となっているDavid Bowieの"Young Americans"について書いてみることにします。

あまりDavid Bowieについては詳しくもなく、得意でもなく、何と言っていいやら、という感じです。キャリアが長く、そのときどきにあわせて変身してきて、それなりにいい曲もあるのは知っているんだけど、敢えてアルバムを買おうと思ったことのないアーティストなので。
Young Americans [ENHANCED CD]
Young Americans [ENHANCED CD]
David Bowie
これはブルーアイドソウルへの移行を明確にした1975年のアルバム、Young Americansのタイトルトラックであり、ヒット曲らしいです。このアルバムの一番有名な曲は、"Fame"ですね。うーん、これ以上、このアルバムについて特に言うことはなかったりするのでした。

ラース・フォン・トリアーは70年代の懐メロを使うのが好きなのかしら、とも思うのですが、わたしがここで思い浮かべているのは、もちろんBreaking the Waves(『奇跡の海』)で、しかしあの映画は70年代に設定されていたから、70年代の曲が使われているのは当然なのでした。でも、1930年代に設定されているアメリカ三部作シリーズには、70年代というのはあまり関係ないですね。
Breaking the Waves
Breaking the Waves
トリアー監督が非アメリカ人としてアメリカを描くのに、イギリス人であるBowieが歌う"Young Americans"を使うのは合っているかもしれません。アメリカということを歌うアメリカ人のアーティストも数多くいますが、非アメリカ人が歌うことも結構あります。例えば、有名なのはThe Guess Whoの"American Woman"。これはカナダのバンドがアメリカ人の女性に寄ってくるな、俺の心を惑わすなと言っている歌なのです。これはアメリカの女性が魅力的だ、ということなのか、それとも怖いと言っているのか(笑)。

ということで、David Bowieの"Young Americans"ですが、歌詞をじっくり読んでみたけれどもよくわかりませんでした。若いアメリカ人の男を探して、場所も質も構わず男を拾う女がいて……それから話は断片的になり、わからなくなってきます。世の中に絶望している感じは伝わってきますが。

この歌のなかで、特に『マンダレイ』に関係ありそうなのは、「黒人たちは尊敬を手に入れ、白人たちはソウルトレインを手に入れた」ということでしょうか? 黒人たちはずっと望んでいたように人間として尊重されることになり、白人たちは黒人たちのソウル番組を手に入れる。これは皮肉でしょうね。でも、これが彼のブルーアイドソウルを確立したアルバムということを考えると、あながちこの黒人になりたい白人たち、という現象も嘘ではない。その後、ラップミュージックの流行によって、現代はそれがもっと顕著になっています。

もう一つ『マンダレイ』に関係ありそうなのは、「生き残った人々を乗せたバスに乗り、アフロの人々に顔を赤らめる」と言う部分でしょうか。これはRosa Parksから始まった人種隔離政策に反対するバスボイコット運動に対する言及だと考えられなくもありません。考えてみれば、『マンダレイ』はバスボイコット運動の起こったアラバマ州に設定されていましたね。このBowieの歌では、もはや黒人たちは白人たちの後ろ、バスの後部座席に座るよう決められていないのでアフロの人々のそばに座るんだ、もう人種隔離政策は終わったのだと言っているのかもしれません。

ごめんなさい。結局、全体的にははっきりわかりませんでした。お前たちのニクソン大統領を覚えてるのか、って言っているところは、もう完全にイギリス人がアメリカに批判的な視線を向けている歌だということは明らかなのですが。だって、これは75年の歌で、ニクソンの失脚は74年のことですからね、忘れているわけはないのですもの。

*間違っているところを見つけて、一部訂正しました。

原詞はこちら

若いアメリカ人
歌詞:David Bowie
訳:Gil-Martin

二人は橋のちょうど裏に車を停めた
彼は彼女を横にして眉をひそめた
「あーあ、俺の人生は不思議なもんだぜ、俺はまだ若すぎるのかな」
彼は彼女にすぐさまキスした
彼女は彼の指輪を取り、ベイビーを手に取った
ほんの数分のことだった、彼女は何も感じなかった
彼女は何だってよかったのかもしれない、だが

一晩中
彼女はアメリカ人の若者が欲しいんだ
アメリカ人の若者、アメリカ人の若者、彼女はアメリカ人の若者が欲しいんだ
一晩中

大きな窓から人々の暮らしを眺める
やせ細った浮浪者を見つける
彼女のフォード・マスタングが通り過ぎるときに彼は咳をする、でも
なんてことだ、彼女は何だって構わない
変態じゃなきゃな、そして何の役にも立たない彼みたいな奴じゃなきゃ
彼はよろめいて手を切るが、
何の反応も見せないまま、彼は歌のようにひったくる
彼女は叫ぶんだ「パパのヒーローはみんなどこに行っちゃったの?」

ワシントンからずっと
彼女を養っている男はトイレの床からぐずぐず言う
「俺たちは二十年しか生きてない
後五十年のずっと死んでなきゃならないのか?」

一晩中
彼は若いアメリカ人が欲しい
若いアメリカ人、若いアメリカ人、彼は若いアメリカ人が欲しい
それでいいんだ
彼は若いアメリカ人が欲しいんだ

覚えてるか、お前たちのニクソン大統領を?
覚えてるか、払わなきゃならない請求書を?
昨日のことでさえ覚えてるのか?

お前はアメリカ人でなかったことはあるのか?
裏声で歌うアイドルが
革、どこでも革のことを歌っていて
ゲットーには神話なんか残されてない
そう、かみそりを持ち歩こうとは思ってるか?
万が一、鬱になったときのために?
生き残った奴らを乗せたバスのなかで、お前は小さくなって座るんだ
てかてか光るアフロの奴らを見て顔を赤らめてな
これって愛に近くないか?
そのポスターって愛じゃないか?
いやいや、そのバービー人形じゃないよ
彼女はあんたみたいに失恋したのさ

一晩中
お前は若いアメリカ人がほしいんだ
若いアメリカ人、若いアメリカ人、お前は若いアメリカ人が欲しいんだ
ほらな
お前は若いアメリカ人が欲しいんだ

お前は女衒でもなきゃ、詐欺師でもない
女衒はキャディラックに乗り、ご婦人はクライスラーに乗る
黒人は尊敬を手に入れ、白人はソウルトレインを手に入れる
ママは腹痛を感じ、ほら、お前の手に痛みが走る
(今日、ニュースを聞いたよ、なんてこった)
俺は訴訟を起こして、お前は敗訴する
もういやって言える男はいないのか?
それに俺があごをゴツンと殴れる女はいないのか?
それに文句を言いたくならずに抱ける子供はいないのか?
切れてしまう前に書けるペンはないのか?
まだ面子が立っていて誇りに思わないのか?
俺を泣かせるような歌はないのか?

*アーティスト:デイヴィッド・ボウイ 
 作品:ヤング・アメリカンズ
   『ヤング・アメリカンズ』

| gil-martin | 音楽 | 22:24 | comments(2) | trackbacks(0) |
父親の権力とリベラリズム
Manderlay
見てきました。ラース・フォン・トリアーのアメリカ三部作の第二作目、『マンダレイ』。前作、『ドッグヴィル』の続きではありますが、主演が二コール・キッドマンからブライス・ダラス・ハワードに変わっています。同時にギャングの親玉である父親もジェームズ・カーンからウィレム・デフォーにバトンタッチ。総括的に言うと、映画としては『ドッグヴィル』のほうがよかったと思いますが、主演はブライス・ダラス・ハワードで大正解。ブライスで『ドッグヴィル』撮ればよかったんじゃないかしら。

公式ウェブサイトはこちらから。英語/日本語

BryceDallasHowardBryce Dallas Howardというのは、M.Night Shyamalanの『ヴィレッジ』の主演で世に出てきた女優。なぜ最初っから主演かというと、才能もあるかもしれませんが、父親が子役俳優から映画監督になりあがったRon Howardだからですね。Apollo13, Ransom, A Beautiful Mind, Cinderella Manの監督として、ハリウッドでは興行成績の見込める監督という位置にありますが、やっぱり忘れてならないのはThe Andy Griffith Showです。アメリカに住んだことのある人はあの白黒(カラーもあるけど)のコメディを一度くらいは見たことがあって、あの口笛のテーマソングに聞き覚えがあるのではないでしょうか。立派な監督になった今も、『アンディ・グリフィス』に出ていたときの面影を残す、いかにも子役俳優出身風の童顔ハゲですが、娘のブライスもかなり父親に似ています。ということは、美人では決してない。

しかし、このグレースという役のナイーブさ、これは明らかにブライスのほうが合っています。このグレースだけではなく、ラース・フォン・トリアー監督の映画の女性主人公は、どうかしら、少々オツムが弱いかしら?という人々のことが多く、そうでなければ彼女たちの純粋だけれども馬鹿げた行動には素直に感動することができません。Emily Watsonが演じたBreaking the WavesのBessはまさに現実に対応する能力が欠けていたし、Bjorkが演じていたSelmaは……うーむ、無知な東欧出身移民というところでその現実対応能力の欠如を何とか説明しきっていたような気がします。


ところがニコール・キッドマンが演じた『ドッグヴィル』でのグレース、どうも説得力に欠けました。今までのようにオツムが弱くて現実対応能力が低いわけではなさそうですが、特殊な箱入り娘なので社会性が低いとはいえるかも。グレースはリベラルな理想主義者で、現実的権力主義者の父親に反発するがあまり、無謀な行動に出て自分を危険にさらす人間です。ハリウッドでの位置を獲得するために、カルト信者でゲイ疑惑が絶えないちんちくりんの俳優と結婚した彼女とはまったく正反対のイメージ。いや、そういう現実の彼女の姿とのギャップは置いておいても、年齢的に父親への反発という感じではなかったし、かつ、洗練されすぎていたという問題はあったと思います。まだちりちりの赤毛だったときのオーストラリアから来たばっかりのかわいいイモ姉ちゃんという感じだった頃だったら、似合ってたかもしれないのですが。このイモ姉ちゃん風なところ、これがブライスのグレースを演じる際の強みだと思います。

さて、こういった配役面でのプラスはありましたが、映画自体はどうだったかというと……。新鮮味に欠けるといえば、そう言えるかもしれません。この前の『ドッグヴィル』で舞台風のセットという視覚的ギミックに慣れてしまったので、何も目新しくありませんでした。でも新鮮味に欠けたのはテーマのせいでもあります。

アメリカ三部作の第二作目である今回のテーマは奴隷制でした。アメリカ嫌いで、飛行機嫌いなのでアメリカの地に一歩も足を踏み入れたことがないとして有名なフォン・トリアーにも、アメリカと言えば触れなくてはならない問題なのかもしれませんが、ちょっとアメリカの外の人が踏み込んでもいいのだろうか、という問題だったように思います。いや、また外部から言うからこそ意味があるのかも、とは思いましたが、結果としてそれほど新しい視点ではなかったこと……つまりアメリカ国内で論じられてきたことではないこと……が限界であったのではないでしょうか。

この映画で論じられたことは、アメリカ国内での保守主義、自由主義のイデオロギーの対立と重なります。この議論はもはや何も新しくないのです。そして、もう一つ言うならば、帝国主義に積極的に加担してきて、現在でも労働者として流入してきた非白人たちの扱いに苦労しているヨーロッパに足場をおくトリアー、特に諷刺漫画騒動のあったデンマーク出身の彼が、眼に見える社会的階級的人種差別を特殊なアメリカの問題として語ってもいいのだろうかという疑問があります。

この映画の一つの解釈として、イラク戦争におけるブッシュ批判だというのがあります。「正義」、「民主主義」を掲げて、心の底から望んでいるのではない人々を圧制のもとから「力」で解放しても、結局は正しいはずの新しいシステムも機能しない、システム自体が成立しないじゃないか、という批判。これもまた正しい読み方でしょう。しかし、この映画で問題となっていて、イラクの解放に当てはまらないのが、グレースを逆上させたティモシーの言葉、「あんたたち(=白人)が俺たちをつくったんだよ」という部分です。

隷属することにより社会での居場所を獲得し、存在意義を獲得するのが奴隷です。いや、ここでヘーゲルの奴隷と主人の話はしませんが、主人がいなくなったとき、奴隷はどうやって自分の居場所を探していくべきか? この映画自体は1930年代に設定されていますが、この映画のなかで議論されていることはすべて南北戦争後のアメリカで議論されたことでした。彼らには自分のことを自分で決定する能力はない(だから黒人には参政権は必要ない)、とする人々、いや、あるのだ、とする人々……しかし、教育を受けていない人が圧倒的な数を占める場合、自己決定能力というものは決定的に低くなります(映画のなかでは、奴隷たちはなぜかみな字が読め、字が書けるようでした。ここは大きな疑問)。教育を受けさせないことにより、彼らの能力を下げ、コントロールすることを容易にしてきたという事実もあるわけです。いかんせん、ここで教育は必要となります。そこで、問題は自己決定能力を持つホワイトカラーになるための教育をすべきか、それとも手っ取り早く生きていくためにブルーカラーの社会の下層のなかで生きていくための教育=職業訓練をするのか、ということになるのです。

リベラリズムでは個人の能力を最大限に信じ、誰だってチャンスを与えれば、という考え方をします。リベラリズムって、ある種の性善説ですね。ここに加わるのが、特に近年、発展してきたリベラリズムの流れの一つである、個人の尊重から派生した「自分らしさ」の主張、その人の元々持つ性質というものを主張する風潮です。だから、移民たちは自分たちのルーツを主張しがちになります。文化であるといって自分たちのやり方の正当性を主張する。それが多くの問題を起こす可能性もあることは現在のアメリカの状況を見れば、一目瞭然です。ただ、元奴隷だった黒人たちには、彼らの元々の性質、元々の文化というものが不明であり、彼ららしさを主張すること自体に混乱もあるわけで、そうなるとまたまた問題は深くなるのでした。

それに関連してまたもう一つ問題となっていたのが、グレースの"proudy nigger”ヘの性的な欲望です。彼女はティモシーがマンシ(??…これよくわかりません)というアフリカの高貴な人々であると信じ、彼への欲望を募らせていく。下等な人間ではなく、孤高の誇り高い人間なのであると。これはリベラルな人、保守派の人、実はどちらも抱きがちなファンタジーです。自分と違った他者に過度なロマンチックな幻想を覆い被せて、夢想していく。保守派の人であれば、それが単なる自分の性的なファンタジーに過ぎないことを理解して、完全に消化しきった形で楽しむ。つまり、セックスツアーに行ったりして、恋愛やら結婚という関係を持つには値しない相手と考えながらも、性的なファンタジーは楽しむ。他方、リベラルな人は、そう、どちらかというと、「社会的に低い地位にある彼と関係を持つわたしって、リベラル!」という罠に陥ったりしがちでもない。その実、相手のことを見下していて、保守派の人が堂々と口にするステレオタイプを美化しているだけだったりするわけです。ここで言えば、まさにマムがティモシーに与えた(本当は違うけれど)「誇り高き服従しない黒人」というイメージなのです。

というわけで、やはり予測どおりグレースの理想主義は失敗に終わります。そして、結局彼女は自分の理想主義が駄目になると、父親による救出を望むのです。今回はそれも成功しませんが。この後、彼女は現実的な権力主義者、父親に頼らずに、かつ理想主義を捨てずに生きることができるのでしょうか? という疑問を抱いたので、多分、三部作の三作目も見に行くことになるでしょう。


| gil-martin | 映画 | 10:00 | comments(9) | trackbacks(12) |
6 Degrees of Kevin Bacon
忙しかったのと、どうもこれについて書きたいという曲が思いつかず、少々さぼりがちになってしまいました。それで少々以前に見た映画について書こうかなあ、と。Where the Truth Lies (『秘密のかけら』)です。あんまり評判にもならなかったし、素晴らしい映画というわけでもなかったけど、なんとなくわたし的にはツボだったので。主演は、ケヴィン・ベーコン、コリン・ファース、アリソン・ローマンです。どうしても映画が見たくなって行き当たりばったりで見た映画なのですが、わたしが見たときにはすでに劇場公開の終わりかけだったので、今はもうどこでもやってないんじゃないでしょうか。なので、ややネタバレで行きます。
Where the Truth Lies
これを見て最初に思ったのは、6 Degrees of Kevin Baconにまたバリエーションが増えるぞ、ということでした。6 Degrees of Kevin Baconってご存知でしょうか? お馬鹿なゲームで、共演者たちを結んでいって、ある俳優からケヴィン・ベーコンに辿り着くまでに何人かかるか、ということを競うものです。ケヴィン・ベーコンはエンターテイメント界(映画界)の中心であり、誰も彼もが六段階まででケヴィン・ベーコンとつなげることができるという仮説に基づいたゲームです。

例えば、ミシェル・ファイファーはジャック・ニコルソンと『イーストウィックの魔女たち』で共演しました。そしてジャック・ニコルソンは『ア・フュー・グッドメン』でケヴィン・ベーコンと共演しています。ということは、ミシェル・ファイファーのベーコン数は2、ジャック・ニコルソンは1となります。

今回、ケヴィン・ベーコンはコリン・ファースと共演し、コリン・ファースのベーコン数は1となり、コリン・ファースと共演した多くのイギリスの俳優もベーコン数がぐっと小さくなったはずです。このゲームのそこはかとないおかしさは、このエンターテイメント界の中心とされているのがケヴィン・ベーコンだということでしょう。彼は確かにキャリアも長いし、かなりいい映画にも出ているけど、オスカーも取ってないし、完全な脇役俳優というほどマニアックな位置にあるわけでもない。つまり、ジャック・ニコルソンでもなければ、ジョン・マルコビッチでもない、その中途半端さがなんだかいい感じなのです。

ゲームだけでなく、この『秘密のかけら』は微妙な映画でした。性描写が多くてB級映画の領域に入りそうなんだけど、ケヴィン・ベーコンとコリン・ファースだし、二人がなかなかの演技を見せ、なおかつかなりのリスクを犯して演技してます。かといって、社会問題を訴えかけることもなければ、感動も呼ばない。ミステリーなんだけど、謎解きがそれほど重要な感じでもなく、ドキドキもしない。まあ、その中途半端さがいいといえばよかったのですが。(映画の公式サイトはこちら。)

この映画の最大の魅力でありながら、おそらくアメリカ以外の観客にいまひとつアピールし切れなかった部分は、ケヴィン・ベーコンとコリン・ファースの役が50年代に一世を風靡するボードヴィル・コメディアン(二人組みのコメディアン)であるということで、明らかにある実在の人々を思い起こさせることでしょう。

アメリカ人は(ある程度の年齢の、かな?)主人公二人を見て、Dean Martin(ディーン・マーティン)とJerry Lewis(ジェリー・ルイス)を思い浮かべます。彼らも1956年にコンビを解消しました。もちろん、全裸女性殺人事件という話はありませんでしたが。このように違うところがあるので、完全に彼らのパロディというわけではありません。映画のなかでは二人がポリオのチャリティのテレソンのホストをすることが一つのポイントとなりますが、実際にはコンビ解消後にJerry Lewis一人が筋ジストロフィー患者のためのテレソンのホストを務めています。しかし、見ている人は間違いなく二人をこの伝説のボードヴィル・コメディアンたちに重ね合わせたに違いありません。ショービジネスには当たり前、特にコメディアンには多いのですが、ケヴィン・ベーコンが演じた役ラニー・モリスもユダヤ系でJerry Lewisはユダヤ系です。コリン・ファースが演じた役ヴィンス・コリンズはそのままイギリス人で、Dean Martinはイタリア系なので少々の違いはありますが、見ている人はLewis & Martinのコンビ解消の裏にこんな話があったかどうだかという気持ちで見たはずだと思います。

この映画では、二人が絶頂を極めており、同時にコンビを解消しようとしている50年代と、過去の人となっている70年代の二つの時代を中心に物語が展開していきます。70年代になって少々落ちぶれたもののやっぱり大物の二人に、伝記を書こうとする若手ジャーナリスト、アリソン・ローマン演じるカレン・オコナーが近づきます。彼女が注目しているのは、彼らのコンビ解消の理由となったらしい、全裸女性死体事件。二人が24時間のテレソンを終えたあと、ホテルの部屋に全裸の女性の死体が発見されたのでした。カレンはヴィンス・コリンズの聞き取り伝記の契約を結び、また同時にラニーが自分自身で出版しようとしている伝記を読むことによって、10数年前の事件の真相を探ろうとするのです。

AlisonLohmanわたしは実はこのアリソン・ローマンが好きなのです。童顔なので実際の年齢より若い役をすることが多いのですが、かなりの演技派です。今回の映画では、やたらセクシーな役でもあったので、この童顔が祟ってちょっとヤバイなあと思った人も多いかもしれません。ともかく特別美人ではなく、まあかわいい、という感じの顔なのですが、何だか印象に残る顔です。Big Fishで幻想的な憧れの少女として出てきたので顔を知っている人も多いかと思います。わたしが彼女を最初に見たのは、Pasadenaというテレビシリーズで、残念なことに5、6回くらいしか放送されなかったと思います。それ以来、彼女には注目しています。曲者役が多いので、将来大物になるかも!


ともかく、いろいろあって、またまたぐちゃぐちゃする映画で、みんなくんずほぐれつの大騒ぎです。一言で言ってしまうとこの映画のポイント(見所も謎解きも)は、"swinging both ways"なのでした。わはは。

という片付け方をすると、ショービズの世界、そしてその周りのジャーナリズムもドラッグとセックスだよ、と単なるセンセーショナリズムだけのストーリーということになってしまいます。それはそうなのです。けれど、それに微妙な陰影を加え得たのは、やはり俳優たちの演技力のおかげでしょう。最初は今ひとつ愛せないボードヴィル・コメディアンの二人、ラニーとヴィンスが、クライマックスまでにはやっぱり完全に肯定できなくても、その魅力がわかるようになってくるのです。

ラニーはなんだかいつもハイパーで嫌味な「スター」です。でもなぜかセクシーな魅力もある。そこは何だか理解したいようでしたくない、とわたしは映画を見ているあいだ揺れ動きました。ケヴィン・ベーコン自体、決していい男じゃないし、すごく微妙なんですもの。でもそこにアリソン・ローマン演じるカレンが、10数年前に実はポリオが治ったばかりの少女としてその2人が解散する前のテレソンに登場したことがあり、彼が事件のことで頭が一杯のままで涙を流して言った"you’re a very special girl"という言葉を力にして生きてきた、ということがわかると、彼女の眼を通して彼を見ることができ、彼が英雄視される理由も理解できるようになります。そして、非常に複雑なヴィンスへのラニーの愛情が最後にわかることによって、彼はそれほど薄っぺらで嫌な奴じゃないことがわかり、見ている方としてはますます複雑な気持ちになるのでした。

コリン・ファース演じるヴィンスは最初から最後まで、わかりづらい人間です。イギリス訛りが与える印象とたがわず(アメリカ人にとっては、ですが)ヴィンスは紳士的で優しい人間のように見えます。しかし、最初の部分のフラッシュバックで語られる50年代のコメディクラブでのエピソードで、ラニーと較べるとまともな人間、という評価は覆されます。ラニーが乱暴に扱った客が彼をユダヤ人め、とののしり、会場が険悪な雰囲気になったあと、ヴィンスは謝らせてくれと言葉巧みにその客を舞台裏に誘いこみます。しかし、彼は突然人が変わったようにその客を殴りつけるのです。そこで彼もそれほどまともではなく、やっぱりドラッグに明け暮れるクレイジーなショービズの人間だということがわかるのです。70年代のヴィンスも少々陰鬱で哀しげながら、抑制が効き、いい人間のようなのですが、やがてはカレンをはめるのです。ここがまさにポイント。ヴィンスはドラッグで酩酊していた状態で、決定的となるああいう行動に出たわけですが、カレンもドラッグの影響で夢うつつの状態だとあっさりそういうことになる。これでヴィンスは彼女をコントロールする材料を手に入れただけではなく、自分自身をなぐさめることができるのです。

この映画、もう少し性描写を控えめにしておいたら結構いい映画だといわれたかもしれないなと思います。それともコリン・ファースとケヴィン・ベーコンよりもっと無名な俳優だったらよかったのかも。といいながら、その二人だからという魅力もたくさんあったのですが。でも、50年代、70年代のレトロな感じの衣裳はかなり楽しかったです。結局、ちゃんとお話を説明せずに書いてしまったので、見なかった人はさっぱりでしょうね。もうちょっとちゃんと書いてもいいのかなあ。ということでレヴューも中途半端になってしまいました。
| gil-martin | 映画 | 22:45 | comments(1) | trackbacks(0) |
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